6月歌舞伎鑑賞教室 「鳴神」2010/06/03 01:11

2010年6月2日 国立劇場大劇場 午前11時、午後2時半開演 2階4列目、1列目で観劇


きょうは、どちらの回も、杉並の高校の生徒達が来ていた。最初に場内が暗くなっただけでやんやの喝采。

二階から見ていたので余計迫力を感じたが、幕開け直後、まだ解説の宗之助が出る前に、せりを上下しながら回り舞台がぐるりと回ったのが壮観だった。せりは前後に大きなのが二つあり、それもいくつかに細かく分かれていて、それ以外に小さなせりが5つあった。そして、背景に出ていた三日月が、最後には満月になった。

解説「歌舞伎のみかた」

解説は宗之助。せりの説明と廻り舞台は日本で発明されて今では世界中の劇場で使われているという説明、上手下手という呼び方の説明の後、黒御簾と音楽の説明があった。傳左衛門・傳次郎のイベントで何回か聞いたので簡単なのはわかるが、二つの小鼓を下手と上手で時間差で打って「こだま」をあらわす、というのは今日初めて聞いた。それに、雷車(らいしゃ)という、木の車がいっぱいついた台も初めて見た。黒衣さんが床に押し付けてガーッと走らせると雷の音がする。

高校生の中から代表が2人出て、太鼓を打ったり、見得をやったり、柝を打ったりし、最後は女形の演技指導で、膝をつけて、肩甲骨をぐっとくっつけるとなで肩になるから、とか言われていた。打ち掛けは重いそうだ。 最初の2人は女子だったので、男子が出れば面白いのにと思っていたら、2時半からの回の一人が男子で、膝をくっつけるのに苦労していた。

「鳴神」

愛之助と孝太郎の鳴神を観るのは3年前の松竹座以来である。松竹座のときは団十郎の面影を感じる鳴神だったが、本人が2度目は叔父に教わったと言っている通り、演技が細かくなっていた。絶間姫の胸に手を入れ直すときの「いまいちど~」の「ど」に好色な響きがある。観たことがない孝夫の鳴神は、あんな感じだったのだろうか。
きめ細かさは感じるが、個人的には団十郎の大雑把な演技が、この役には合うんじゃないかと思う。というか、最初に観た鳴神が団十郎なので、刷り込みか。

孝太郎はうまいが、最初にお姫様らしい品が欠けているので、「なるわいなあ」の後、急に庶民的になっても意外さがなくてつまらない。

坂東玉三郎特別舞踊公演2010/06/05 21:02

2010年6月5日 京都四条南座 午後2時開演 2階1列8番

1、地唄 「由縁の月」

幕開き、玉三郎が後ろ向きで立っている。背景は二枚の金屏風で覆われ、舞台には燭台が4本。ろうそくの周りに紙を回してあるので番付の写真とは違う。玉三郎の髪型と着物も写真とは違っていたと思う。背が高くて(それはいつもそうだが)、やけに腰の細い女に見えた。「雪」と同じく私の苦手なゆっくりした動きで、私の好きな玉三郎ではなかった。

2、長唄、義太夫「重恋雪関扉」

幕が引き落とされ、舞台には関兵衛の格好の獅童が座って木の枝を束ねたり片付けたりしていた。去年の藤良会で観た愛之助の関兵衛は酔った様子で杯と土瓶を持って出てきたが、あれとは違うなと思った。
舞踊というより芝居に重点を置いたもののように見えた。記憶の中にある愛之助の関兵衛と比べると獅童はとても頭が小さい。

しばらくして花道から玉三郎が出てきた。自分の席からは、まず玉三郎の頭が見えた。小野小町娘。番付の写真と同じ格好をしている。関兵衛が女を見て「いよーっ」と言う言い方がいかにも女の美しさに驚いたようで、客の笑いを誘っていた。

上手の部屋の簾が上がって、中に少将宗定役の隼人が座っていた。宗定が関兵衛に女を中に通すように言うと、関兵衛は「女とみると通してやれ、通してやれと~」とふざけた口調で言う。獅童は一瞬で客の気持ちをつかんでくれるので、観ていて気持ちが良い。

隼人は台詞はまだ稚拙だが、本格的な歌舞伎風の台詞まわしだ。追々うまくなっていけば良いのだ。玉三郎の目の前で一人で踊ったりして、本当に偉い。もう一生、怖いものなしだろう。獅童と玉三郎が引っ込んだ後、しばらくは隼人一人だけで舞台にいた。怯む様子もなく、きちんとやっていた。良い経験をさせてもらったと思う。鳥が片袖をくわえて飛んで来た。鶏の鳴き声がするとどうしても笑ってしまうのだが、隼人が「合点のいかぬ鶏の声」と言うと、客はもっと笑っていた。

そうこうするうちに、獅童が杯と土瓶を持って出て来て、隼人は上手の部屋に戻って簾が下がった。去年観た「関の扉」はここから始まったわけだ。しかし、この前に玉三郎と獅童が花道で踊ったときに獅童が杖をついた老人のような所作をしていたが、愛之助もあれをやったような記憶がある。

関兵衛がまさかりで上手の部屋の琴を割ると中から片袖が出て来た。

玉三郎の墨染が桜の木の中から出て来たときは、人外のものらしい、少し不気味な雰囲気があった。墨染が「色になってくれ」と言い、ここからが2人が絡んで面白いところなのだが、無念なことに睡魔に襲われて、気づくと獅童はぶっかえって大伴黒主になっていた。

獅童は関兵衛より大伴黒主の方が良いだろうと予想したのだが、意外に関兵衛の方が良かった。獅童はみてくれとと芝居は大変結構なのだが、踊りはどうも下半身が不安定。踊るために必要な筋肉がついていないんだと思う。

大伴黒主がまさかりを立ててその後ろに立っていたとき、獅童も去年の愛之助と同じように顔を描いていたと思うが、まさかりを外しても顔の化粧の違いはあまり明確に認識できなかった。それでも最後には青隈で口の中が赤い顔になって、玉三郎の墨染を追いかけて消えた。

名古屋シネマテーク 「宮城野」2010/06/06 17:12

名古屋シネマテークはビルの二階にある、定員四十名の小さな映画館だった。「宮城野」を見るのは3回目だ。赤坂レッドシアターで見た「宮城野」はスタンダード版で、蓼科で見たディレクターズカット版より短かかったので最初のバージョンをもう一度見たいと思った。今回のはディレクターズカットで113分であることは事前にわかっていた。

場所がすぐにわからなくて少し遅れ、入ったときは柝の音が聞こえて、宮城野(毬谷友子)の述懐が始まるところだった。赤坂に行ったときは、蓼科で見なかった最後の10分を見るつもりで、今回は、スタンダード版ではカットされていたところを再確認するつもりだった。ところが、最後の、宮城野が死んだ後の、矢太郎と写楽の場面は、私にとって初めて見るものだった。スタンダード版ではあの場面はなかったので、自分が蓼科で見なかった10分間にはあまり大きな展開はなかったのだと思い込んでいた。どんでん返しというほどではないが、この映画を構成する大きな骨格の一つが、スタンダード版からは抜けていると言っても良い。

スタンダード版を見たとき、ディレクターズカット版にはあった写楽と版元が話をする場面がない、と思った。写楽は矢太郎が描いた宮城野の絵を版元に渡し、それを元に役者はどう言おうと自分の絵は良い、みたいなことを言っているが、矢太郎が部屋の外にいることに気づくと「黒を黒と描けるだけでは~」と矢太郎の腕を貶す。そして、今回初めて見た最後の場面では「黒を白にするなんざ、お前にしては上出来」と言っている。この呼応する二つの場面をスタンダード版ではカットして写楽と矢太郎の話は影の薄いものにし、女郎の宮城野が主役であることを強調したわけだ。原作は読んだことがないのだが、写楽と矢太郎の部分は原作から離れて監督のオリジナルが入っていたのだろうか。

他にも、スタンダード版を見たときにカットされていた部分をいくつか確認できた。座敷を出ていく矢太郎に写楽が言葉をかけるシーンのうち最初のものは、写楽の口は動いているがサイレントである。スタンダード版はこれがなかった。 宮城野が座敷で踊っているシーンもあった。人形振りのような気がしていたがそうではなく、膝をついて踊る。演奏は女義太夫。

赤坂では気付かなかったが、矢太郎が提灯を持った黒衣といっしょに芝神明に行き、木立に女がいるのに気付き、黒衣が提灯の灯を吹き消すのもスタンダード版にはなかったような気がする。その後の、主な出演者全員のだんまりシーンはあったが。

呉服屋に行く宮城野の紙人形を黒衣の手で動かすシーンもカットされていたと思うし、これ以外の紙の模型のシーンも、かなりの部分がカットされたのではないだろうか。

その結果の全体的な印象としては、ディレクターズカット版の方が芸術性も完成度も高いものに感じる。まあ、当然か。

オタク的な細部の違いへの興味は別として、3回目でようやく話の流れや登場人物の気持ちが理解できるようになった。宮城野について言えば、自分の命を救ってくれた樵の自己犠牲的行為が幼い宮城野の心にやきつき、一種のトラウマとなって、自分も誰かのために犠牲になる人生を選ばせたのだろう。

矢太郎について、最初に見たときは、似せ絵はうまいが自分のオリジナルはぱっとしなくてそれに悩んでいるのだと思っていたが、2回目も今回もそれは感じなかった。矢太郎の興味はそういう芸術的なところにはあまりなく、世俗的成功の方に関心がある人のような気がする。押入れに隠れていた矢太郎が出て来て自分の気持ちを語るときの愛之助の演技はなかなか良い。

最近、歌舞伎で使われている音楽についての説明を聞く機会があったせいで、使われている音楽にも気がついた。宮城野の回想シーンで雪が降っているところで「雪おろし」。それも、関西バージョンのような気がした。最後に近い方は関東バージョンではないかと思ったが、そこまで使い分けているはずはないか。芝神明で加代がよろめいて矢太郎にぶつかるシーンでは柝の音を使っていた。

第22回 花道会歌舞伎セミナー2010/06/19 23:02

2010年6月19日 TKP銀座ビジネスセンター6階ホール6A

蒸し暑い中、オランダ戦も気になりながら、花道会歌舞伎セミナーに出かけた。行く途中に見えた歌舞伎座は屋根はそのままだが通りに面した壁の部分は青いシートで覆われた足場ができていた。

前回出席した花道会歌舞伎セミナーのゲストは秀太郎で、今回は愛之助。聞き手はおくだ健太郎だ。 前回と同じビルだが部屋は違う。今回も人がぎっしり座っていて、机がない椅子だけの席もあった。こんな満員のときに一番前に座らせてもらって申し訳ない気持ちになる。

先に入って来たおくだが「みなさんは『あの人は今どこに』と思っているでしょう」と言って大向うばりに「まつしまやぁ」と声を掛け、愛之助を迎え入れた。愛之助は黒無地のスーツに黒いシャツ。ノーネクタイ。今日はなんの障害もなく全身を眺められて眼福。愛之助は上手の椅子に腰かけ、左手にマイクを持って、右手は指を開いて右の膝に乗せていることが多かった。


おくだ健太郎を見たのは初めてだ。もっと自己主張の強い人かと思ったが、わりと口数が少なくて愛之助のしゃべりに任せていて、段取り臭さのないところに好感を持った。 ただ、私としては、今までのトークショーとは違う観点からの、レベルの高い質問が出て緊張感があると面白いなと期待していたので、そういう意味では期待外れだった。おくだは東工大で歌舞伎をテーマに講義をしていて、封をした5円玉を使って封印切ごっこをしたと言う。国立劇場に鳴神を見に連れて行った人達のうちの一人の感想文を愛之助に渡していた。教え子の一人は、歌舞伎を観に行って、忠臣蔵の最後に服部逸郎が馬に乗って花道から出てきたのを見て、「ファンタジックな歌舞伎なのにどうして本物の馬が出るのか」と憤慨していたそうだ。(馬を本物と間違えたことについては会場から「うそー」と声が上がり、私もちょっと信じられなかった)遠い席だったし、それだけ馬がうまかったんでしょう、とフォローするおくだ。愛之助は、一度馬の中に入らしてもらったことがあるが、人が乗ったらとても動けない、と言っていた。


きょうのテーマは「歌舞伎の魅力を若い世代に伝えよう」。愛之助は今、国立劇場の歌舞伎鑑賞教室の鳴神に出ているので、その話をした。きょうの学生さんは上人が客席に向き直ったときから全員舞台の方を観ている良い子達だったそうだ。鑑賞教室をやっていると役者も自分との戦いで、時には最前列で椅子からずり落ちそうに寝ている子もいる、とその姿を実演。鳴神が絶間姫の胸に手を突っ込むシーンでは、こんな感じで見ている女の子もいる、と顔の下半分を両手で隠して驚いたようなおびえたような表情の女の子を実演。


20年くらい前に大阪で鑑賞教室に出たときは、見ている子達がうるさくて、騒ぐくらいだったら頼むから寝ててくれ、と思うほどだった。解説の我當が、「おまえらは~!」と切れておっかなかった。俊寛の千鳥が出てきたら、おかまコールが湧き起ったこともあった。 昔、鑑賞教室で歌舞伎を観たという人に「何をやった、誰が出ていた?」と聞いても覚えていないことが多いので、孝太郎と自分の名前を覚えて帰ってもらいたいと思っている。1000人の学生さんが連れられて見に来たとして、その中で一人が歌舞伎のファンになってくれたらいいかなあ、と思う。

上方歌舞伎の話になって、去年の巡業で藤十郎の忠兵衛を相手に八右衛門をやった時、あんな大先輩相手に罵倒したりできるかと心配だったが、実際に演じていると藤十郎はどこから見ても忠兵衛にしか見えなくて、とてもやり易かったそうだ。 藤十郎がそんな風に役になりきる人だということは客から見ても感じるので、とても納得できる感動的な話だった。


毎月一回、舞台を録画して記録する日がある。記録の日には、とちる役者が多い。後世に残るから良いところを見せようと余計なことを考えるからだと思う。だから愛之助は、記録会の予定を書いたものが来ても捨てて、見ないようにしている。いつもと同じにやっていれば良いわけだから。

上方の男はいつもお金がない。それなのに女のところへ行く。それで金を借りて、返せなくなるとどういうわけか女に「死のう」と言う。

団七は愛之助と同じく堺出身。港町といっても横浜や神戸のようにしゃれたところではない。おくだは御園座の「夏祭浪花鑑」のイヤホンガイド解説をやった。愛之助が捨て台詞の話を始めたが、おくだによると、捨て台詞はイヤホンガイド泣かせだそうだ。夏祭の上演中、団七の妻のお梶役の門之助と、芝居に出る料理屋の昆布屋(こぶや)ではどんな物が食べられるか、という話をしていたので、子供をおぶって花道を歩いているときに「かか、何食べる?」と捨て台詞で門之助に聞いたら、門之助が固まってしまった。

浅草歌舞伎の封印切の舞台稽古をしていた時、忠兵衛役の亀治郎が持っていた封金が、破れないようにビニールで包んだもので、破れなかった。だから、舞台稽古はやった方が良い。昔は顔見世には舞台稽古はなかったそうだ。きまりきった演目をやるから。偉い役者は稽古では台詞をいい加減に言うだけなので、初役の人はとても困ったそうだ。


わからなかったら一度はイヤホンガイドを借りてみて。次にはイヤホンガイド無しで観て。そうすると違うものが見えたり聞こえたりするだろう。
歌舞伎はどうして何度見ても飽きないのかというと、難しいから。
義太夫の台詞を聞いてほしい。

テレビや映画は演じていてあまり面白くない。自分が今何をやっているかわからないから。映画は監督にとっては面白いだろう。ただ、後で見せてもらって、あれがこうなったのか、とわかる面白さはある。

七月松竹座の「双蝶々曲輪日記」の「井筒屋」はあまり上演されないが話の発端。今回は角力場がない。「妹背山」の鱶七は、浪花花形でやった時に吉右衛門にならった。浪花花形のときは前半もあったから話がわかるが、今回は鱶七はいきなり出て行ってお三輪を射す。

九月松竹座では前田慶次をやる。いろいろ考えて、二年くらい勉強すればミュージカルもできるかと思って、自分以外は全員ミュージカルの役者にしてミュージカルをやろうとしたこともあったが、それはやめて、前田慶次になった。原作に忠実にやると場面転換が多くなるので、なるべく少なくしたい。(そういえば「蝉しぐれ」のときは暗転が多すぎると批判されていた)

ラヴ・レターズ2010/06/24 23:21

2010年6月22日 パルコ劇場 午後7時開演 Y列


朗読劇、という以上の内容をほとんど知らなかった。アンデイーとメリッサが交互に手紙を読み、その一つ一つの内容は必ずしもラブ・レターではないが、50年にわたる手紙のやり取りが一つのラブ・ストーリーを形成する。 原作本は1つで、それを毎回違う男女が朗読する。

アンディー(片岡愛之助)とメリッサ(朝海ひかる)が舞台に出て来て椅子に腰かけ、朗読を始める。アンディはブルージーンズに白いポロシャツ、白地に赤と黒のチェックの短い袖のジャケット、黒地で白い紐のスニーカー。髪型は横分けでコンサーバティブな感じ。メリッサは赤いカーディガン。今風の感じのカーディガンだった。

時の流れも2人の性格も家庭環境も、観客は手紙の内容から判断するしかない。50年にわたる手紙のやり取り、というのも知らなかったので、最初の方は退屈な内容にしか聞こえなくて、2人の世界に入っていけなかった。いたたまれなくなったらどうしようと、少し不安になったほどだ。しかし、手紙の中に連立方程式の話が出て、2人が中学生なんだろうな、と見当がついたあたりから興味を持って聞けるようになった。アンディーは「ですます調」でお堅い感じで、メリッサは自由人の芸術家肌。思春期の男女らしく、女の子の方が大人っぽい。愛之助は声もしゃべり方も十代の男の子風。声だけ聞いていたいような気持にもなったが、せっかく顔が見えるのにもったいないから、時々見た。朗読中は無表情。足の先が時々微妙に動くのは無意識なのだろうか。朝海ひかるは裕福な家の小生意気な娘にぴったりだった。アンディーはいつの間にかエール大学の学生になる。成績が良いという伏線はあったが、そんなに利発な感じを受けなかったので、ちょっとびっくりした。 思春期以降の男女のやり取りが面白くて、休憩中は、2人がこれからどうなるのかと後半が楽しみだった。

二幕目では、アンディーは髪型は同じだが黒地のピンストライプのスーツに革靴、白いシャツに赤いネクタイ、と大人になった。メリッサもイタリア風(?)のワンピースに大きなイヤリングと大人っぽい。愛之助は足の組み方を逆にし、声も大人の声になった。

愛之助の、ちょっと古臭い雰囲気が、この物語の時代とアンディの性格に合っていたと思う。二幕目は初めからずっと話に引き込まれて聞き入っていたが、特に最後の手紙は愛之助の芝居のうまさが光って、この時だけは表情も思いっきり悲しげになり、ステージも客席も盛り上がった。

朝海ひかるは「きれいなおねえさん」で金持ち娘で芸術家のメリッサにぴったりだった。朗読も安定してうまいので声優かと思ったら、宝塚の人だった。「派遣のオスカル」に出てた女優さんだ。

愛之助と朝海はアンディとメリッサと同じく同い年で、良い組み合わせだったと思う。好きな役者がラブ・レターを読むのを聞けて幸せだった。

最後の方は鼻をすすりあげる音が聞こえ、朝海も最後の方の台詞では少し涙ぐんでいるようだった。終わったときは愛之助も朝海も悲しそうな顔のまま、大きな拍手に包まれた。2人で引っ込んだ後、笑顔で戻ってきてお時儀をし腕を組んで引っ込んだが、また拍手に呼ばれて現れた。


朗読を聞いているうちに、もう一度内容を反芻したくなったので、休憩のときにロビーで原作本を買った。最後まで聞くと、始めの方に聞き流した手紙の内容が意味を持ってくるのだということが、本を読んでわかった。

朗読を聞いた直後は、成功した男が昔愛した女を思い出して一時的に感傷的になっているだけの話か、所詮は男の書いたラブ・ストーリー、と片づけてしまいそうになった。しかし、考えてみると、これも一つの男女の愛のあり方なのか。この話からは、恋物語というより、人生とか運命というものを強く感じる。2人とも、自分のあるべき人生を生きた。

メリッサはアンディーが他の女と結婚すると思って、その前に婚約したように見える。それについては残念だったというより、結婚して互いの人生の邪魔をしなくて良かったと思う。もし結婚していたら大きな軋轢を生じていたろう。メリッサは結婚生活もうまくいかず、芸術家としても認められず、アルコール依存症になって死ぬが、それは彼女が心の赴くままに生きた結果であって、傍目には不幸に見えても、1つの完成した人生なのだと思う。アンディーと結婚して、上院議員の妻として支持者に愛想を振りまいたりできる人のように思えない。

一方アンディーは上院議員になり、家庭にも恵まれた。これが彼の目指した生き方だ。しかし、メリッサに死なれた今、彼は大きな喪失感を感じている。選挙の結果がメリッサとの関係よりも優先する政治家になってしまったアンディーだが、小学生のアンディーがメリッサに惚れていたのは当時の手紙から確かなことで、だから最後の手紙に書いたメリッサに対する気持ちも口先だけのこととは思わない。だから許せる。


この劇の原作は英語だから、「あいしています」は原文では「I love you.」なのだろう。それなら「好きだよ」くらいのニュアンスだろうと思うのに、敢えて「あいしています」と訳しているのは何か効果を狙ってのことだろうか。アンディーの手紙をほとんど「ですます調」にしているのはアンディーのお堅い性格を表現しようとしているのだろうが、英文には2人の手紙にスタイルの違いはないはずで、読んだ印象が日本語とは違うのではないか。そんなことを考えて、英文の本をアマゾンに注文した。