亀井広忠プロデュース 能楽舞台 略式五番立 神・男・女・狂・鬼2010/12/10 23:03

2010年11月25日 日経ホール 午後7時開演

能の見どころや聴きどころを抜粋して上演する「略式」。

神 素囃子 「神楽~急々之舞」 
笛 杉信太郎、小鼓 大倉源次郎、大鼓 亀井広忠、太鼓 大川典良

神楽というのはそういうものなのか、今まで聞いた素囃子のような緊張感がなく、ちょっとゆるめ(?)の印象。舞が入るとしっくりするのかもしれない。


これの後、広忠が出てきて、演目の解説はパンフレットにまかせるとして、簡単に各演目を紹介した。


男 舞囃子「清経」 シテ 坂口貴信

坂口貴信は、夏の「伝統芸能の今」で気に入った人。あの時は謡だけだったが、きょうは舞いも見せてくれて、堪能した。

女 一調 「芭蕉」 謡 山崎正道 大鼓 亀井忠雄

狂 居囃子・舞囃子 「融 舞返」 シテ 角当直隆

これも、大鼓は亀井忠雄。

鬼 半能 「石橋 大獅子」 シテ(白獅子) 片山清司 ツレ(赤獅子)

これの大鼓は亀井広忠。歌舞伎の連獅子はしょっちゅう見てるような気がするが、能の「石橋」を見るのははじめてだ。前に三響会で、歌舞伎と能の獅子が一つの舞台で踊るのを見たことはあるが。面をつけるせいか、能の獅子の方がキャラクターぽいというか、フィギュアのような感じがする。アニメが好きな人は、絶対こちらの方が好きだろうと思う。

勤め帰りだし、直前に夕食をとったので、絶対に寝るだろうと思って、確かに少しウトウトしたところはあったのだが、予想よりも面白くて目をパッチリ開いてみてるときが多かった。

日生劇場 十二月大歌舞伎2010/12/12 05:28

2010年12月11日 日生劇場 午後4時半開演 1階P列36番

「摂州合邦辻」は、前に国立劇場で藤十郎が玉手をやったとき、とても感動した。

菊之助の玉手は、きちんとした女という感じで、義理の息子に恋していたのはただの見せかけだった、という最後の戻りがそのまま納得できそうだった。好みでいえば、最後の戻りは本心じゃないでしょう、としか思えない、恋する女の匂いを全身から発散していた藤十郎の玉手が好きだった。これは役者の持ち味で、歳を重ねてうまくなったから変わるというものでもないだろう。

全体の配役は、国立のときより年齢的なバランスが良かった。玉手と合邦は本物の親子だし、玉手より少し若い俊徳丸、それより少し若い浅香姫。

前に秀太郎がやった、玉手をいさめる羽曳野の役は時蔵の方がずっとニンだ。東蔵の母役も、母性を感じさせて、この人を見てるとまるで歌舞伎座で観てるような気持になる。父の合邦は、国立のときの我當の方が役に合ってたと思う。藤十郎より年下なのに、なぜか父親らしかった。

俊徳丸の梅枝と、浅香姫の右近の2人が良かった。歌舞伎は踊りが基本なんだとつくづく思う。右近はまだ声は不安定だが、動きがしっかりしているので歌舞伎になっている。

亀三郎の次郎丸はうまい。


「達陀(だったん)」

若い子達の群舞ということで期待が大きかったが、期待外れだった。時蔵の青衣の女のところが、好みの問題もあるが冗長。群舞のところは新しいが、全体に照明が暗くて、席が後ろの方だったのでどれが誰か判別できず、いまいち楽しめなかった。

映画「宮城野〈ディレクターズカット版〉」プレス試写2010/12/23 17:07

12/17(金)の午後2時からと12/20(月)の午後7時から、映画「宮城野〈ディレクターズカット版〉」プレス試写に行った。場所は虎ノ門にある試写室。1階にセブンイレブンがあるビルの地下1階で、座席数は30ほど。すわり心地の良い上等な椅子だった。


知り合いの好意でもぐりこませてもらったので、どの人がプレスの人だかわからなかったが、横の方で写真をとっている人がいた。

「宮城野」を見るのはこれで4回目。

最後の10分を見なかった蓼科の映画祭、短縮版があると知った赤坂レッドシアター、再びディレクターズカットを見るために行って最後のシーンに衝撃を受けた名古屋シネマテーク。名古屋では道に迷って何分か遅刻したので、今回初めて、ディレクターズカット版を最初から最後までちゃんと見たことになる。 感想はその時々で異なるので、このブログに「宮城野」というカテゴリを作ってまとめた。今回の上映は画像も音響も最高、と事前に聞いていたが、確かに、遊郭の中のよその部屋の声や外のざわめきを画面上の人の声とは別に聞きわけることができた。

今回見て新たに確認できたことの一つは、薪車の口上。宮城野が処刑されて柝が入った後、場面が変わって、薪車の口上が入る。今までは、口上というので、薪車が裃を着て現れるのだと思い込んでいたので、わからなかった。声だけだったのだ。

だんまりのシーンのとき、役者達が宮城野の絵をやりとりしているのも、今回初めて気付いた。

映画の冒頭に写楽の描いた宮城野の絵が出る。金曜日は何も気付かなかったが、月曜に見たときは、最初は絵に色がなくて、その後、一色ずつ加わっていくのに気付いた。 土曜日にサントリー美術館の「その名は蔦谷重三郎」展で、「金貸石部金吉」の絵に色を一つずつ刷り足していったのを順番に並べた展示を見たからである。映画で後に出てくる絵草紙屋の店先も、サントリー美術館の展示の一つとして作ってあった店に似ていた。矢太郎が絵を描いている後ろに、写楽の絵が木製のクリップで止めて吊るしてあるが、展示の店の中にも同じように浮世絵が飾ってあった。

私がこの映画を最初に蓼科まで見に行ったのは、片岡愛之助が出るからである。ファンとしては、愛之助が存分に見られて非常に満足だった。山崎監督は、今回の試写後のトークの中で、当時の絵師は歌舞伎について詳しかったに違いないので、矢太郎の役は絶対歌舞伎役者に頼もうと決めていた、と言った。愛之助に注目したのは「新撰組」に出たときで、ときどき涼しい目をするのが良いそうだ。 「涼しい目」というのは、宮城野の話を聞いて「それもまた・・・・か」と言ったときの冷たい目のことだろうか。

愛之助は歌舞伎役者なので、着物の着方はもちろん、写楽に酒を注ぐときの動作など、時代劇の立ち居振る舞いが身に付いている。ただ、そういう点を差し引いて考えると、矢太郎という役を十分に表現できているのかどうか、私にはわからない。

他の共演者は、みんな素晴らしい。毬谷友子、樹木希林、國村隼は、初めて見たときからずっと、役柄にぴったりでうまいと思っているが、おかよ役の佐津川愛美は、前回まではただ若い子の瑞々しさを感じるだけだった。今回見て、「臭くて、みだらなお部屋」という台詞に代表されるような、若い女の子の固さと残酷さがよく出ていると思った。

上映時間113分のうち、ここは見たくないとか、この辺はだれるから飛ばしたいとかいうところはないが、何度か見た結果、宮城野役の毬谷友子が女義太夫の演奏で座敷で上半身だけの踊りを見せるのは、なくても良いのではないかという気持ちが固まった。毬谷の見せ場なのにもかかわらずスタンダード版でカットしてるということは、毬谷もあれは気に入ってないのではないか? 女義太夫は良い。毬谷の部分だけ、浮いている。あと、矢太郎が、吊るしてある写楽の絵に向かって歌舞伎の見得のような格好をするのも、好きではない。この映画に使われている歌舞伎的要素、例えば黒衣や音楽は良い。特に、黒衣が襖の向こうの陰から三味線を渡すところは大好きだ。背景の一部が描き割りだったり、紙人形が動いたりするのも、この映画の魅力になっている。しかし、上記の2か所は、登場人物が役そのままで急に別の世界の動きをするので、違和感を覚える。だんまりのシーンは、全員別キャラ化してるから良いのだが。、


両日とも、上映後に、15分くらいのトークがあった。先に出てきた小口えりこさんという美女と、山崎監督とのかけあいが、実に楽しかった。〈ネットで検索したら、小口さんは元ニッポン放送のアナウンサーだそうだ。〉

小口さん「海老蔵さんのことで愛之助さんが話題になっている今、この時に、この上映会があって、やったと思ったんじゃないですか」
監督「やっぱり、そこから入りますか・・・。せこい男ですから、確かに、やったなとは思いますよ」
みたいなノリ。二人は大学時代の同級生だそうだ。

3年前の松竹座で愛之助が海老蔵の代役をやって全幕出演することになったとき、監督は「宮城野」撮影の打ち合わせをするために大阪に行ったのに、愛之助と面会できず、松竹座で観劇しただけで帰ることになった。名刺の裏に「痩せてください」と「左利きの練習をしてください」と書いて番頭さんに渡して来た。 その二つをしっかりやってくれた、と監督は言っていたが、映画の中の愛之助は、そんなに痩せてるようには見えなかった。

映画の中で、毬谷友子の宮城野と、愛之助の矢太郎がキスをするシーンがあるが、これは原作にはない。撮っている現場で毬谷さんがひらめいて、「やっぱりここはキスくらいしないと」と提案し、監督も確かにそうだと思って、そばで聞いていた愛之助はオロオロしていて、この緊張のまま撮ってしまえと、5分後に撮った、という。

出席者から、最初に撮ったシーンはどこかという質問があったが、その答えは忘れてしまった。最後に撮ったのは、矢太郎が仕事場で、終わった絵の名前の上に線を引いていくシーンだそうだ。「左利きにもずいぶん慣れたからやりましょうか」ということで。

この映画を撮影していた時は、愛之助は国立劇場に出ていて、撮影が終わるのが朝の5時ということもあったが、疲れたとか眠いとかは一言も言わなかった。それについて監督はいつも「マツシマヤッ」と思っていた。終わる時間が遅くなった時は寝ないで、そのまま国立劇場に出ていた。食べると眠くなると言って食事もとらなかったが、スタッフが鰻を差し入れたときは、思いっきり食べていた。

監督は何回か愛之助の楽屋に行ったことがある。歌舞伎座の楽屋というのは歴史があって独特の雰囲気があり、パワースポットのようだった。楽屋で正座して待っていると、愛之助は「よ、先生」と言った後、必ず「足をくずしてください」と言ってくれるので、とても助かる。楽屋では、愛之助はバスローブで出てきたりするので、男二人だけだと、ちょっと変な気持になる。

月曜日には、「そ」という文字が袋の表面に書いてある、楽屋見舞いに行くともらえるお土産を見せてくれた。中身はあぶらとり紙だそうだ。今年は桜茶をもらった、と言っていた。

當る卯歳 吉例顔見世興行 夜の部2010/12/26 22:13

2010年12月25日 京都四條南座 午後4時15分開演 1階5列25番

「外郎売」

落とし幕の前に花四天が並ぶ。以前観たときには遅刻したので、ここは観てない。幕が落ちて最初に目に入った春猿が綺麗だ。背景には、何時間か前に本物を見た富士山。雪のかぶり具合も同じくらいだった。

春猿、笑三郎など澤瀉屋の面々が並んでいる中に、一人、誰だかわからない役者がいた。私の席の正面あたりにいた立役で、橋之助に似ているような気もするが、違う。顔立ちの良い人だけど・・・としばらくわからなかったが、閃いた。薪車だ。番付を確認したら、やはり薪車だった。

上手の柱に「歌舞伎十八番の内 外郎売」と外題が書いてあり、下手の柱には「六代目片岡愛之助 相勤め申し候」と書いてある。晴れがましいことである。

猿弥がやることになった朝比奈の役も、愛之助に合いそうな良い役だ。そのうち、愛之助で見る機会もあるだろう。

愛之助の外郎売は、最初花道の奥から声が聞こえ、花道から登場した。わりと高めの声。すっぽんのあたりに止まってあいさつをした。扇子には三升の紋。後見は千蔵。

舞台に出て、「外郎売は昭和十五年に~私が初役で勤めます。なにとぞ鷹揚の御見物を~」と口上。

早口の言い立ては、愛之助はうまいだろうと予想していたが、その予想の遥かに上を行く出来で感動した。口跡も滑舌も元々良いが、それに加えて歌い上げるような調子が素晴らしかった。これをこんなにうまくやれる人は、歌舞伎役者の中に何人もいないのではないか。愛之助の最も得意とする芸を観客に披露する機会を得て、本当にラッキーだったと思う。

その後、曽我五郎の姿になっての荒事は、愛之助は一応無難にこなしただけ。人を蹴ったり暴れたりする荒事は、海老蔵がやらないとつまらない。

「仮名手本忠臣蔵 七段目」

南座の顔見世は三年ぶりだ。経済的な理由で去年も一昨年も行かなかったが、玉三郎のおかる、仁左衛門の平右衛門は、桜姫の再演が望めそうもない今、この2人の絡みの最高の演目で、観ないわけにはいかない。

最初に花道から出てくる三人侍は歌六、歌昇、それに種太郎。その後ろに仁左衛門の平右衛門が続く。種太郎は、座敷で由良之助の言葉に憤っている様子を表情で表わしていた。

力弥役は種之助。舞踊がうまいだけあって、木戸の前で待っている姿が美しく決まっている。

きょうの席はちょっと上手すぎると思ったが、玉三郎のおかるが二階の部屋から姿を現すのが正面に見えたから嬉しい。

おかるが手紙を書いているところに平右衛門が現れてからは、すっかり2人の世界になる。三年前に観たときに比べても、容貌は2人とも老けたと思う。美しい兄妹というより、何年もつれそった夫婦のようだ。

勘平の様子を尋ねるおかるに、「達者だ」と言いながら顔を曇らせる平右衛門。

2人が花道に行っても、歌舞伎座ほど花道が遠くないので良かった。

「河庄」

この芝居は大好きだが、七段目の後には観たくなかった。

翫雀は丁稚の役が気の毒なくらいはまっている。

逆に、扇雀の小春は、合わない役のように思うし、それを補う技術もなく、ちょっと気持ち悪い。

後半は治兵衛役の藤十郎と孫右衛門の段四郎、それに扇雀の3人だけの芝居になるが、そのときは扇雀は時々泣いてればよい役なので、芝居は壊れない。

段四郎は、私が聞いていても関西弁のアクセントは怪しいが、やさしい兄らしい感じが良い。藤十郎は、いつも通り、ものすごくうまい。小春への怒りで、ほほをぴくぴくさせながら聞き取れないような文句をずっと言ってるのが面白かった。台詞のところどころで、言い方が似ているなあと玉緒を思い出す。治兵衛の着物は薄紫の裏地が超おしゃれだ。

「鳥辺山心中」

松竹座で観たのはつまらなかったが、今回は悪くなかった。半九郎は江戸の侍なので、梅玉のようなさわやか系がやった方が良いし、お染役も、芝雀のようなかわいくて女らしいタイプが向いている。

半九郎の袴の模様が懐かしかった。松竹座のときに薪車がやった源三郎の役は松江。松竹座のときは半九郎と源三郎の喧嘩だけが面白かった。

薪車は今回は半九郎若党八介という小さい役で出ているが、薪車がやった方がうまかったかもしれない。

「越後獅子」

この演目の前にもっと観客が減るかと思ったが、土曜の夜のせいかそうでもなく、九割方は残っていた。

越後獅子は最近二回くらい観たが、どちらも素踊りで、衣装をつけたのは初めて観た。主役の翫雀以外にも4人踊る。

翫雀は元々そんなに踊りはうまくないが、適当に振り通りに踊ってお茶を濁しているのではなく、うまく踊ろうと努力しているように見える。舞踊家である奥さんに細かくコーチしてもらっているのかもしれない、とも考える。

最後は全員、布を操る。それ以外に、きょうはクリスマスなので特別に、翫雀が、三番叟のときに鳴らす鈴だと思うが、その鈴を鳴らし、長唄が「ジングルベール、ジングルベール」と唄った。客席も手拍子をしたが、ジングルベルは最後までは唄わなかった。

當る卯歳 吉例顔見世興行 昼の部2010/12/27 22:09

2010年12月26日 京都四條南座 午前10時半開演 2階2列9番

今はチケットweb松竹で座席を選んで買うことができる。昼の部はずっと迷っていて観劇の数日前に買ったのだが、2階2列目の通路際を買うことができた。観劇したとき、私の左隣りの2席は客がいなかった。売れ残ったのだろう。

「羽衣」

前に歌舞伎座で玉三郎と愛之助で観たので、孝太郎との共演なんか観るもんか、と思っていたが、気にいった席が買えたので気が変わった。

歌舞伎座のときとは演出も振付も変わっていた。歌舞伎座では傳次郎は太鼓で、上手にいた。今回は立鼓で、下手。愛之助の伯龍は下手後方からフワッと出てきたが、今回は盛大な拍手に迎えられて花道から登場した。

孝太郎の天女は、花道の出は玉三郎と同じ。顔を見ると天女のコスプレをした安女郎のようだが、踊りはけっこう見られるので我慢できる。 見た眼は、冠をかぶった天女の姿に衣装替えした後の方がましだと思う。

愛之助は歌舞伎座の時は、天女との年齢差、身長差のせいか、もっと若くかわいく見えた。

天女が天に帰るときは、歌舞伎座のときは玉三郎が花道を引っ込み、愛之助がセリ下がって、高さの違いを現していたが、今回は愛之助は花道の七三にいて、舞台の松がセリ下がり、孝太郎はその後ろにいて雲の上に行くような感じにしてあった。愛之助はすっぽんから下がっていった。

「寺子屋」

観たかったのは種太郎の涎くり。幕あき、ひたすら墨をする涎くり。おっしょはんのいないときに勉強なんかするの損だから遊ぼう~と煽動する涎くり。そこに、「1日に一字覚えれば~」と超KYの管秀才。三人侍のときと合わせて考えると、種太郎は、役作りをしっかりする人なのだ。

「阿国歌舞伎夢華」

前に観たとき、いくら玉三郎のファンでも、こんな綺麗なだけのくだらない舞踊は1回観ればたくさんだと思った。しかし、仁左衛門が相手だと全く別の作品になるのではないかと思い、、どうしても観たくなった。実際、2人が踊っているのを見たら、2人が踊るのを観るのは久しぶりなことに気づき、私を歌舞伎に引き寄せたのはこの2人の世界なんだから、これで破産しても本望だと、やっぱり観てよかったと思った。

この幕は傳左衛門が立鼓で、傳次郎は太鼓。

最初に男伊達の愛之助と翫雀が、愛之助を先にして花道から出てきた。七三で入れ替わって翫雀が前に。愛之助の男伊達は、昨夜、夜の部を観たときに写真を買った。衣装が似合って、顔もとても綺麗だ。たただただ美しいだけのこの演目に溶け込んで乗り良く踊っていた。水が合ってる感じがして、愛之助の資質を思いがけず再認識した。逆に、翫雀は水が合わないように見える。越後獅子に比べると、こっちの舞踊は捨てたのかと思った。

玉三郎は笑也に手をとられて花道を出てきた。後に続く笑三郎、春猿、吉弥。鬼揃紅葉のナントカのときと同じ顔ぶれだろうが、やっぱりこういう風に綺麗な方が良い。どれが誰かもよくわかるし。これ以外の女歌舞伎の中に千壽郎もいた。

仁左衛門は名古屋山三の亡霊の役で、七三から出てくる。2人で踊りだすのを見ると、仁左衛門はいつも色男風の踊りだな、と思う。この前、どんつくで福助相手に踊ったときもそうだった。色男の役以外の舞踊観たのは連獅子くらいだろうか。後見が松之助と贅沢。勧進帳のようだ。、

2人の踊りは二人椀久のときの踊りを思い出させるものがあった。踊りのテーマ自体が似ているし。2人でおそろいの薄紫の足袋を履いているのも萌えポイント。

山三の亡霊は消え、最後、玉三郎の阿国は悲しげな様子で幕になる。


「沼津」

20年以上も前、猿之助と延若で観たことがあり、その時は暗くてつまらない話だと思った。暗い話なのは同じだが、仁左衛門がうまいし3兄弟の息が合っているので、名作だという印象が強い。仁左衛門の義太夫に合った動きは素晴らしい。我當は全然うまくない人なので、平作は演じているような感じがしない。この人がいなくなったらこの芸はもう観られないんだろうなぁ、という思いは、二十年以上前に勘三郎の「文七元結」を観たとき以来だ。