坂東玉三郎講演会-演じるということ ― 2013/06/07 22:38

2013年6月7日 明治大学アカデミーコモン3F アカデミーホール 午後6時~7時45分
きょうの講演会は本当に良かった。
初めに玉三郎が一人で話した。今まで歌舞伎役者のトークというと、必ず司会者の質問に答える形だったので、珍しいと思った。司会の齋藤 孝教授が素晴らしかった。知識をひけらかすことはなかったが、頭も感性も良いひとだということが十分に感じ取れた。楽しくて、玉三郎がのってしゃべっていたと思う。7時30分終了予定なのに15分も押した。
恥ずかしながら「離見(りけん)の見」という言葉を知らなかったし、カタルシスということを言ったのがアリストテレスということもきょう初めて知った。ためになる講演会だった。
全くの部外者の私に、抽選でもなくネットで申し込んだだけで無料で見せてくれた明治大学に深く感謝している。
椅子についているテーブルを広げ、その上で大学時代のようにノートをとってみた。聞き漏らしたところ、理論の整合性がないところなどがあると思うが、自分のシートに基づいて書いてみる。
一部:坂東玉三郎 講演
(幕が上がると、スーツ姿の玉三郎と齋藤先生が座っていた。齋藤先生は挨拶して引っ込み、玉三郎は立ち上がって演壇で話をした。)
演じることについて
子供の頃から本能的にやってきて、そこに理論があったわけではない。役者として演じて金をもらう裏付けとして理論を考えた。
一人で話すのは苦手。質問する相手があってこそしゃべれる。一人で筋道を立てて話すのは難しい。
・演じるということはどういうことか。
他人になったような気持ちになる。
衣装や鬘をつけて自分ではないものになっていく。
その差の中で自分を確認する。
自分の本当の感情がどこにあるか、他人になってみて確認できる。
たとえば似合うとか、似合わないとか。そういうことで自分を確認する。
・何故ひとの前でやるか?
自分でないものになっている。
客は客で、自分と対話しているのかもしれない。
つまり、
演じる側 - 自分と、演じているもの
客 - 自分と、演者
演じているドラマを通じたコミュニケーションがある。
自分は寂しがりやだったかもしれない。
他人の反応を確認して、自分に戻る。
たとえば、着飾って自分でないものになる。そして、それを脱いでほっとする。着飾ることも演じていることなのかもしれない。
だから現代のようにハレとケがはっきりしなくなると、自分探しが難しいかもしれない。
・何故他人になるかは置いておいて、演じることは喜怒哀楽の再生
それが嘘に見えないように
喜怒哀楽の感情を記憶し、演じるときに、自分の脳のどこかに信号を送る
例えば、悲しみを表現するとき
悲しみの記憶を脳に送って悲しくなる。そして「私、悲しいんです」と言う。
稽古、修行は、感情のスイッチがどこにあるかを確認するもの。
「役者なら見ておけ」という。
見たときの感情を自分の中に記憶する。それが俳優の専門的な仕事。
そのスイッチのオンオフのコントロールがうまくいくように
「感情」に見合う「形」をはめられるかどうか。
人間は形と感情が重なっている。
大げさだと、嘘とわかる。自然なら、ぴったり同じ。役者はそうでなければいけない。
室町時代、と言われたら室町時代の形にしなければいけない。それが演じるということ。
本能では?と言われるほど自然に見えるべき。
「高い技術を持っている」と言われたら役者はおしまい。
・日本の戦後の教育では、海外の文化がベースとして入った日本語を使っている。演技の形態も変わった。
自分のホームページにも書いたことだが、人間は必ず五感で感受してから反応する。しかし戦後、反応ばかりを教える学校が多かった。理解することを省かれたのが現代。だから古典がまだるっこしいと感じられることも。
浸透している時間は状況による。
例えば緊迫した状況で早く、の場合
感受 浸透 反応が、この役ではどういう風に行われるか。それをキャラクターに合わせてやる。
それには、「本を読む」、「作家がどういう人生を送って来たか調べる」
それが俳優の仕事
一部の最後に玉三郎は、斎藤先生は「僕はしゃべりすぎる」とおっしゃるのですが、その時は僕が止めますので、お呼びしてよろしいでしょうか、と言って斎藤先生が再登場した。
二部:坂東玉三郎 × 齋藤 孝(明治大学文学部教授) 対談
齋藤 お話を聞いている皆さんは感動のあまり声も出ませんね。ここで、今までの玉三郎さんのお話がわかったかどうか、確認してみましょうか。ほとんどわかったという方?
(拍手多数)
齋藤 きょうは強気な方が多いですね。
玉三郎 お世辞じゃないですか。
非常に不可解という人がいるかどうかを知りたい。遠慮なくどうぞ。
(拍手がきこえる)
齋藤 素直ですね。
玉三郎 自分は今日と明日で気づくことが違う。自分への理解が変わる。だから明日もやる。不安定のなせる技。もうちょっとやった方がわかるのじゃないか、ということで
齋藤 変化は?
玉三郎 ひらたい言葉で言うと、感情の積み上げで容易に表現できるようになる。
たとえば「隅田川」。自分は産んでもいないし子供もいない。能役者に子供がいない自分がどうやって子供を失った悲しみを表現できるかときいたら「自分の最愛のものを失ったということから」と言われた。
感情の引き出しが多くなる。
齋藤 母性は
玉三郎 自分の場合は父性を女にしただけ。
愛情だけでは母性になりにくい。
齋藤 女らしさ、その基準。目にしたこともない江戸時代の女らしさをどこでつかむか。
玉三郎 想像力
齋藤 浮世絵?
玉三郎 この絵の人は取り乱してもこうなるだろう、と想像する。その絵の形をしてみて、その人が取り乱したときをやってみる。これがふさわしく過不足なくお客様に伝わるだろうことを想像する。
齋藤 浮世絵はとらえている
玉三郎 先生、すみません、言葉をはさんじゃって。
客が「さぞかし、こうだったろう」と思うのは、妄想。だけど、そうさせるのが我々の仕事。客が鎌倉の人たちはこう泣いたろうと思ったらそれで成功。
斎藤 客が思ってることとずらしてやろうと思わないか
玉三郎 真実はこっちだよ、と思わないとずらせない。自分が思ったことを提示して、客が納得すればそれで良い。納得できる幻想を抱かしてあげる。
齋藤 つかんでいるものは?
玉三郎 実はね、先生ね、いろんな役者が揚巻をやっている過去の写真がありますでしょ。まず真似をする。その人になりすませようとする。しかし、鬘も照明も全然今と違う。その入念な用意する時間。
揚巻になって立って出て行って、すっと、肩に手をのせる。花魁が実際にそうだったかはともかく、こうだったろうと思うときがある。
齋藤 本当に取り乱したら美しくない
玉三郎 取り乱しながらもコントロールされている
齋藤 (客席に向かって)美しさを意識して取り乱している方いらっしゃいますか?
この人の怒りさえも美しい、という場合がある。たとえば映画の「ひまわり」の主人公。どの瞬間をとっても美しい。それを実現するのはどうするか。
玉三郎 自分を見てる。意識が離れてること。離見ですね。
齋藤 世阿弥が言った「離見(りけん)の見」
どの辺から見ているか
玉三郎 いろいろ。自意識は違う。
齋藤 外側から冷静に見る。取り乱したときにビデオをまわしとくといいですね。怒りにかられた時。美しく怒れる手つきとか。実際の役の中ではどんなのがあるか。
玉三郎 突然に言われて思い出せない。
四谷怪談は演じてもすっきりしない。桜姫は、最後に恋人が親の敵とわかって恋人を殺す。そしてすっきりしている。浄化という意味で。
浄化されてなかったら役者やめてます、僕。
きょうの答えが出る。翌朝起きて、また不安になる。
不安がなかったらやめる。不安が大きすぎてもやめる。
齋藤 悲しい物語の持つ浄化力
玉三郎 涙流したら浄化される
齋藤 アリストテレスが言った「カタルシス」ですね
玉三郎 自分がカタルシスという語彙を持ってるかわからないので「浄化」を使っている。
メディアのような悲劇。
それでもカタルシスがあるか。演じている方も、客も。
齋藤 歌舞伎は、最後、すっきりしたわ、という感じが大事
玉三郎 作家が浄化されやすい人だと浄化される
齋藤 浄化系で好きなのは?
玉三郎 やってる歌舞伎はほとんど。
鷺娘はしっかり死ぬし、道成寺はしっかり嫉妬できる。
齋藤 感情もあるところまで行き着いちゃうと浄化される?
玉三郎 感情は出した方が良い。しまいこんで出せない人のために演劇があるのではないか。だからコミュニケーションと言った。
齋藤 共振。ガンジス川は死体も流す。でも聖なる河。
歌舞伎座はガンジス川なのでは?
玉三郎 当然です。
言葉が汚くなりますが、汚物、死体が本物でないとガンジス川になれない。浄化されない。
齋藤 偽物やブラスチックにはイライラされますか?
玉三郎 そこまでの技術がない場合はイライラする。自分も、そうなってるかはわからない。自分より先に客がわかって、ガンジス川に浄化されに来ない。
齋藤 客の目は確か?
玉三郎 かなり確か。ほとんど感覚が確か。
齋藤 寝に来たな、もいると思う。
玉三郎 年齢からくるものかもしれませんが、こだわらなくなりました。
阿古屋をやる時、客の姿に惑わされないために、最初に面明かりをじっと見る。すると客が見えなくなる。
最善をつくして、に尽きる。それしか、後悔をしない一日を送る方法がない。
齋藤 寝る人は私は一人も許せない。全員立ってもらう。歌舞伎座じゃできませんよねーー
玉三郎 気にならなくなりました
齋藤 歌舞伎座に行ったら道成寺の前の演目のときに、自分の前は4人中3人が寝てた。踊りが始まったら起きた。何か殺気が出てるのではないか。
玉三郎 見えているところとは違うところ。それが一番大事。
齋藤 深いところで意識の輝き。それが皆に伝わる。
玉三郎 気、空間支配、意識。 感情支配の線。それが劇場よりも遠くへ行く。
悟った境地と悟らない境地が2つ同時に。
その意識しか舞台をするよすがはない。
齋藤 意識の線をはる緊迫感
玉三郎 尋常でない強さ
齋藤 今の台詞を練習してみる
玉三郎 意識があって振り返るから、やります
(と言って立ちあがり、舞台の上に飾ってある花に恨みがあるとして、花に背を向けて歩いて行ってパッと振り返るのを実演。
客席全員立って、斎藤先生にならって準備体操。腕を長く伸ばすためには肩から伸ばすのではなく仙骨から伸ばす、と玉三郎がやって見せて、我々もやってみる。「真如の月を眺めあかさん」と言いながら左手を斜め上に伸ばす稽古。)
玉三郎 形にとらわれると感情が出ない。感情にとらわれると声が出ない。
感情と形がびしっと入ってないと。
齋藤 「下手なものならなんでも見ろ」と言うそうですが
玉三郎 祖父、父は、酷かったという噂があったら観に行け、というんです。
見て分解し、その中に自分より優れていたものを見つけられるか。
良いものも、その中に欠点を見つけられるか。
自分はできる、と思わなければ舞台に出ていかれない。そのかわり、楽屋へ帰ってきたら、どんな下手な役者よりも一段階下手と思って生きていかれるか。
齋藤 柔道野村の話
玉三郎 よくわかる。本当にダメと思ってなければ稽古できない。幕があいたからにはやらなければいけない。
齋藤 皆さん、一度舞台に立ってもらわないと。肚が決まる。玉三郎さんの中心軸は持ち帰っていただきたい。
玉三郎 私は足を悪くして、無駄な筋力を使わずにターンすることを工夫していたら、軸を使うしかなかった。身体が本能的に工夫した。
胸が開いていて、首が前に出ていない状態。
胸が開いていないと情感が伝わらない。これは理論の外。構造上の基本。
(「ありがとう」という言葉を例にして、)子音を立てる。子音を擦れば擦るほど感情が強く出る。
非現実的空間。言い回しの中に空間と時間が羅列しなければ立体的にはならない。
(聴衆の中の学生さんへのメッセージとして) 実物に会う、人間に会う、人に口伝で物を教わることが大事。
スマホで情報を得て人間に会わないのが心配。
齋藤 歌舞伎の舞台は実物
玉三郎 いろんな人に会って幸せだった
齋藤先生が、普段よく歌舞伎観る人と、観ない人それぞれに拍手を求めたら、半々ぐらいだった。玉三郎のファンが大勢詰めかけてるのかと思ってたのにちょっと意外だった。終了後、ホールの外でエスカレーターの順番を待っているときの感じでは、確かに若い学生さんが多かった。
きょうの講演会は本当に良かった。
初めに玉三郎が一人で話した。今まで歌舞伎役者のトークというと、必ず司会者の質問に答える形だったので、珍しいと思った。司会の齋藤 孝教授が素晴らしかった。知識をひけらかすことはなかったが、頭も感性も良いひとだということが十分に感じ取れた。楽しくて、玉三郎がのってしゃべっていたと思う。7時30分終了予定なのに15分も押した。
恥ずかしながら「離見(りけん)の見」という言葉を知らなかったし、カタルシスということを言ったのがアリストテレスということもきょう初めて知った。ためになる講演会だった。
全くの部外者の私に、抽選でもなくネットで申し込んだだけで無料で見せてくれた明治大学に深く感謝している。
椅子についているテーブルを広げ、その上で大学時代のようにノートをとってみた。聞き漏らしたところ、理論の整合性がないところなどがあると思うが、自分のシートに基づいて書いてみる。
一部:坂東玉三郎 講演
(幕が上がると、スーツ姿の玉三郎と齋藤先生が座っていた。齋藤先生は挨拶して引っ込み、玉三郎は立ち上がって演壇で話をした。)
演じることについて
子供の頃から本能的にやってきて、そこに理論があったわけではない。役者として演じて金をもらう裏付けとして理論を考えた。
一人で話すのは苦手。質問する相手があってこそしゃべれる。一人で筋道を立てて話すのは難しい。
・演じるということはどういうことか。
他人になったような気持ちになる。
衣装や鬘をつけて自分ではないものになっていく。
その差の中で自分を確認する。
自分の本当の感情がどこにあるか、他人になってみて確認できる。
たとえば似合うとか、似合わないとか。そういうことで自分を確認する。
・何故ひとの前でやるか?
自分でないものになっている。
客は客で、自分と対話しているのかもしれない。
つまり、
演じる側 - 自分と、演じているもの
客 - 自分と、演者
演じているドラマを通じたコミュニケーションがある。
自分は寂しがりやだったかもしれない。
他人の反応を確認して、自分に戻る。
たとえば、着飾って自分でないものになる。そして、それを脱いでほっとする。着飾ることも演じていることなのかもしれない。
だから現代のようにハレとケがはっきりしなくなると、自分探しが難しいかもしれない。
・何故他人になるかは置いておいて、演じることは喜怒哀楽の再生
それが嘘に見えないように
喜怒哀楽の感情を記憶し、演じるときに、自分の脳のどこかに信号を送る
例えば、悲しみを表現するとき
悲しみの記憶を脳に送って悲しくなる。そして「私、悲しいんです」と言う。
稽古、修行は、感情のスイッチがどこにあるかを確認するもの。
「役者なら見ておけ」という。
見たときの感情を自分の中に記憶する。それが俳優の専門的な仕事。
そのスイッチのオンオフのコントロールがうまくいくように
「感情」に見合う「形」をはめられるかどうか。
人間は形と感情が重なっている。
大げさだと、嘘とわかる。自然なら、ぴったり同じ。役者はそうでなければいけない。
室町時代、と言われたら室町時代の形にしなければいけない。それが演じるということ。
本能では?と言われるほど自然に見えるべき。
「高い技術を持っている」と言われたら役者はおしまい。
・日本の戦後の教育では、海外の文化がベースとして入った日本語を使っている。演技の形態も変わった。
自分のホームページにも書いたことだが、人間は必ず五感で感受してから反応する。しかし戦後、反応ばかりを教える学校が多かった。理解することを省かれたのが現代。だから古典がまだるっこしいと感じられることも。
浸透している時間は状況による。
例えば緊迫した状況で早く、の場合
感受 浸透 反応が、この役ではどういう風に行われるか。それをキャラクターに合わせてやる。
それには、「本を読む」、「作家がどういう人生を送って来たか調べる」
それが俳優の仕事
一部の最後に玉三郎は、斎藤先生は「僕はしゃべりすぎる」とおっしゃるのですが、その時は僕が止めますので、お呼びしてよろしいでしょうか、と言って斎藤先生が再登場した。
二部:坂東玉三郎 × 齋藤 孝(明治大学文学部教授) 対談
齋藤 お話を聞いている皆さんは感動のあまり声も出ませんね。ここで、今までの玉三郎さんのお話がわかったかどうか、確認してみましょうか。ほとんどわかったという方?
(拍手多数)
齋藤 きょうは強気な方が多いですね。
玉三郎 お世辞じゃないですか。
非常に不可解という人がいるかどうかを知りたい。遠慮なくどうぞ。
(拍手がきこえる)
齋藤 素直ですね。
玉三郎 自分は今日と明日で気づくことが違う。自分への理解が変わる。だから明日もやる。不安定のなせる技。もうちょっとやった方がわかるのじゃないか、ということで
齋藤 変化は?
玉三郎 ひらたい言葉で言うと、感情の積み上げで容易に表現できるようになる。
たとえば「隅田川」。自分は産んでもいないし子供もいない。能役者に子供がいない自分がどうやって子供を失った悲しみを表現できるかときいたら「自分の最愛のものを失ったということから」と言われた。
感情の引き出しが多くなる。
齋藤 母性は
玉三郎 自分の場合は父性を女にしただけ。
愛情だけでは母性になりにくい。
齋藤 女らしさ、その基準。目にしたこともない江戸時代の女らしさをどこでつかむか。
玉三郎 想像力
齋藤 浮世絵?
玉三郎 この絵の人は取り乱してもこうなるだろう、と想像する。その絵の形をしてみて、その人が取り乱したときをやってみる。これがふさわしく過不足なくお客様に伝わるだろうことを想像する。
齋藤 浮世絵はとらえている
玉三郎 先生、すみません、言葉をはさんじゃって。
客が「さぞかし、こうだったろう」と思うのは、妄想。だけど、そうさせるのが我々の仕事。客が鎌倉の人たちはこう泣いたろうと思ったらそれで成功。
斎藤 客が思ってることとずらしてやろうと思わないか
玉三郎 真実はこっちだよ、と思わないとずらせない。自分が思ったことを提示して、客が納得すればそれで良い。納得できる幻想を抱かしてあげる。
齋藤 つかんでいるものは?
玉三郎 実はね、先生ね、いろんな役者が揚巻をやっている過去の写真がありますでしょ。まず真似をする。その人になりすませようとする。しかし、鬘も照明も全然今と違う。その入念な用意する時間。
揚巻になって立って出て行って、すっと、肩に手をのせる。花魁が実際にそうだったかはともかく、こうだったろうと思うときがある。
齋藤 本当に取り乱したら美しくない
玉三郎 取り乱しながらもコントロールされている
齋藤 (客席に向かって)美しさを意識して取り乱している方いらっしゃいますか?
この人の怒りさえも美しい、という場合がある。たとえば映画の「ひまわり」の主人公。どの瞬間をとっても美しい。それを実現するのはどうするか。
玉三郎 自分を見てる。意識が離れてること。離見ですね。
齋藤 世阿弥が言った「離見(りけん)の見」
どの辺から見ているか
玉三郎 いろいろ。自意識は違う。
齋藤 外側から冷静に見る。取り乱したときにビデオをまわしとくといいですね。怒りにかられた時。美しく怒れる手つきとか。実際の役の中ではどんなのがあるか。
玉三郎 突然に言われて思い出せない。
四谷怪談は演じてもすっきりしない。桜姫は、最後に恋人が親の敵とわかって恋人を殺す。そしてすっきりしている。浄化という意味で。
浄化されてなかったら役者やめてます、僕。
きょうの答えが出る。翌朝起きて、また不安になる。
不安がなかったらやめる。不安が大きすぎてもやめる。
齋藤 悲しい物語の持つ浄化力
玉三郎 涙流したら浄化される
齋藤 アリストテレスが言った「カタルシス」ですね
玉三郎 自分がカタルシスという語彙を持ってるかわからないので「浄化」を使っている。
メディアのような悲劇。
それでもカタルシスがあるか。演じている方も、客も。
齋藤 歌舞伎は、最後、すっきりしたわ、という感じが大事
玉三郎 作家が浄化されやすい人だと浄化される
齋藤 浄化系で好きなのは?
玉三郎 やってる歌舞伎はほとんど。
鷺娘はしっかり死ぬし、道成寺はしっかり嫉妬できる。
齋藤 感情もあるところまで行き着いちゃうと浄化される?
玉三郎 感情は出した方が良い。しまいこんで出せない人のために演劇があるのではないか。だからコミュニケーションと言った。
齋藤 共振。ガンジス川は死体も流す。でも聖なる河。
歌舞伎座はガンジス川なのでは?
玉三郎 当然です。
言葉が汚くなりますが、汚物、死体が本物でないとガンジス川になれない。浄化されない。
齋藤 偽物やブラスチックにはイライラされますか?
玉三郎 そこまでの技術がない場合はイライラする。自分も、そうなってるかはわからない。自分より先に客がわかって、ガンジス川に浄化されに来ない。
齋藤 客の目は確か?
玉三郎 かなり確か。ほとんど感覚が確か。
齋藤 寝に来たな、もいると思う。
玉三郎 年齢からくるものかもしれませんが、こだわらなくなりました。
阿古屋をやる時、客の姿に惑わされないために、最初に面明かりをじっと見る。すると客が見えなくなる。
最善をつくして、に尽きる。それしか、後悔をしない一日を送る方法がない。
齋藤 寝る人は私は一人も許せない。全員立ってもらう。歌舞伎座じゃできませんよねーー
玉三郎 気にならなくなりました
齋藤 歌舞伎座に行ったら道成寺の前の演目のときに、自分の前は4人中3人が寝てた。踊りが始まったら起きた。何か殺気が出てるのではないか。
玉三郎 見えているところとは違うところ。それが一番大事。
齋藤 深いところで意識の輝き。それが皆に伝わる。
玉三郎 気、空間支配、意識。 感情支配の線。それが劇場よりも遠くへ行く。
悟った境地と悟らない境地が2つ同時に。
その意識しか舞台をするよすがはない。
齋藤 意識の線をはる緊迫感
玉三郎 尋常でない強さ
齋藤 今の台詞を練習してみる
玉三郎 意識があって振り返るから、やります
(と言って立ちあがり、舞台の上に飾ってある花に恨みがあるとして、花に背を向けて歩いて行ってパッと振り返るのを実演。
客席全員立って、斎藤先生にならって準備体操。腕を長く伸ばすためには肩から伸ばすのではなく仙骨から伸ばす、と玉三郎がやって見せて、我々もやってみる。「真如の月を眺めあかさん」と言いながら左手を斜め上に伸ばす稽古。)
玉三郎 形にとらわれると感情が出ない。感情にとらわれると声が出ない。
感情と形がびしっと入ってないと。
齋藤 「下手なものならなんでも見ろ」と言うそうですが
玉三郎 祖父、父は、酷かったという噂があったら観に行け、というんです。
見て分解し、その中に自分より優れていたものを見つけられるか。
良いものも、その中に欠点を見つけられるか。
自分はできる、と思わなければ舞台に出ていかれない。そのかわり、楽屋へ帰ってきたら、どんな下手な役者よりも一段階下手と思って生きていかれるか。
齋藤 柔道野村の話
玉三郎 よくわかる。本当にダメと思ってなければ稽古できない。幕があいたからにはやらなければいけない。
齋藤 皆さん、一度舞台に立ってもらわないと。肚が決まる。玉三郎さんの中心軸は持ち帰っていただきたい。
玉三郎 私は足を悪くして、無駄な筋力を使わずにターンすることを工夫していたら、軸を使うしかなかった。身体が本能的に工夫した。
胸が開いていて、首が前に出ていない状態。
胸が開いていないと情感が伝わらない。これは理論の外。構造上の基本。
(「ありがとう」という言葉を例にして、)子音を立てる。子音を擦れば擦るほど感情が強く出る。
非現実的空間。言い回しの中に空間と時間が羅列しなければ立体的にはならない。
(聴衆の中の学生さんへのメッセージとして) 実物に会う、人間に会う、人に口伝で物を教わることが大事。
スマホで情報を得て人間に会わないのが心配。
齋藤 歌舞伎の舞台は実物
玉三郎 いろんな人に会って幸せだった
齋藤先生が、普段よく歌舞伎観る人と、観ない人それぞれに拍手を求めたら、半々ぐらいだった。玉三郎のファンが大勢詰めかけてるのかと思ってたのにちょっと意外だった。終了後、ホールの外でエスカレーターの順番を待っているときの感じでは、確かに若い学生さんが多かった。
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