松竹座 七月大歌舞伎 夜の部2011/07/07 21:32

2011年7月4日 松竹座 午後4時半開演 1階4列20番

「車引」

花道から出てきたのは、ころっとしてるから梅王丸の愛之助だろう。上手から、桜丸の孝太郎が出てきた。二人とも深編笠をかぶったまま腰かけてしばらくしゃべった。愛之助は、ちょっと喉に痰がからんだような声。やがて、笠をとって顔を見せる。 愛之助は、この手の隈どりがよく似合う。孝太郎の方の隈どりがはっきりしなくて、あの顔で良いのかと思った。

杉王丸は巳之助。この系統の顔が似合う。

松王丸の進之介は、隼人に感じるのと同質の下半身の軽さを感じる。写真で見た初舞台の頃と変わらない童顔。台詞も不安定だが、孝太郎と愛之助の高音寄りの声に比べ、この人のバリトンは落ち着いた長男の雰囲気に合う。

番付を見ると、この演目にも「あらすじ」がある。 台詞の意味がわからないわけではないのだが、全体の繋がりをつけることができなくて、筋を追えない。

「伊勢音頭恋寝刀」

幕開き、松之亟と嶋之亟の女芸人がいて、松之亟が長方形のカスタネットのようなのを叩いていた。

花道から、籠にのった万次郎(秀太郎)と、奴林平(愛之助)が出て来た。演舞場では門之助と獅童だった。
門之助の万次郎がすごく良かったし、秀太郎は万野と二役までしてやるほど、これに向いてるのかな、と思っていたが、秀太郎の万次郎もおっとりしていて良かった。それに、たぶん二役までしてやったのは次の妙見町宿屋の場で、貢の仁左衛門、藤浪左膳の我當と三人のシーンがあるので、ここで松嶋屋三兄弟が揃うためだろうと、実際に芝居を見て思い至った。

愛之助の林平は、思った通りうまかった。化粧がよく似合って、必要もなく色男の林平だ。驚くところで、「イヤヤヤヤー」と、鑑賞教室で松也がやって見せてくれた通りに驚いたのが面白かった。 松嶋屋三兄弟がそろう妙見町宿屋の場では、仁左衛門の隣りに愛之助がいて、その愛之助が昔の孝夫の顔をしているので泣けた。私の孝夫はどこへ行ったのーーーーーー!

追駆けの場の最初は客席通路を野道に見立てて追い駆けっこ。密書を奪い取ろうとする林平が、大蔵(松之助)と丈四郎(當十郎)を追って、舞台から下手の通路に降りてきた。愛之助は、前の方の席の人に「あっちか?」と聞いて私の横を走り去って行ったが、松之助は戻ってきて、私の席の後ろあたりに隠れて、密書を持って立ちあがって「こっちだ」と林平によびかけたりした。

二見ヶ浦の後、長い休憩があり、その後が油屋店先の場。

万次郎が恋人のお岸(梅枝)と会いに油屋を訪ねてくる。それに意地悪を言う仲居の千野が吉弥。片側はほとんど下の襟が見えないような着付けが超エロっぽかった。後で出てくる万野も同じような着付けだった。

訪ねてきた貢とお岸のやりとりの感じが良かった。梅枝は所作も台詞もうまいが、この場では、どことなく浮き浮きした感じがあったので、仁左衛門が好きで絡みが嬉しいのかな、と思った。共演は、去年の油地獄で兄妹をやって以来だろうか。

秀太郎の万野は、徳三郎以来の本物の万野だった。水商売に染まった、上方の崩れた年増女。貢の質問にしれっと嘘を答える態度、もっと強く叩けと挑発する態度がふてぶてしくて良かった。

お紺の時蔵はきれいでしっかりした感じが役にぴったり。松竹座の浪花花形で「伊勢音頭」をやった同じ月に、歌舞伎座で「伊勢音頭」を見たとき、時蔵のお紺はきれいだなあとつくづく顔を見たのが忘れられないが、四半世紀近く前に中座でやった「伊勢音頭」のお紺も時蔵だったのだ。すっかり忘れていた。時蔵の台詞を、後ろに座ったお岸役の梅枝がじっと聞いていた。

弥十郎のお鹿は、特に滑稽さを出そうとせず真面目にやっているが、それでも大きくて象のような顔が自然に可笑しいのが良かった。今までは何も考えなかったが、遊女には、合計で百両、今の金なら一千万円くらいの金額を男に融通できるくらいの収入があったのだなあ。

三津五郎の喜助は初めて観たが、観る前から間違いなく良いと確信できるくらい、合った役だ。今月の伊勢音頭はニンに合った配役がほとんどで気持ちが良い。折り目正しい台詞、きれいな所作、全部良かった。青江下坂と、岩次の刀とのすり替えについて、ずっと良く分からずにいたのだが、三津五郎の台詞が明晰なせいか、今回はよくわかった。「ふん、ばかめ」の言い方もうまい。

奥庭の場は、後ろに橋もかかって、橋の上でも踊り子が踊ったので豪華だった。そんなにうまい人はいないが、千壽郎はうまいような気がする。

私の席は、血まみれの貢が丸窓から出てくるのが真正面に見える。最近、仁左衛門の殺しの場を見ることが多い。仁左衛門の殺しの場は迫力があってかっこ良い。

この芝居の最後は、こんなにたくさん人を殺しておいて、折紙が出て来たくらいで何がめでたしなの、と疑問なのだが、貢の台詞として「たくさんの人を殺した後では~」のようなのがあった。完全なハッピーエンドじゃないことは自覚してるわけだ。