名古屋シネマテーク 「宮城野」2010/06/06 17:12

名古屋シネマテークはビルの二階にある、定員四十名の小さな映画館だった。「宮城野」を見るのは3回目だ。赤坂レッドシアターで見た「宮城野」はスタンダード版で、蓼科で見たディレクターズカット版より短かかったので最初のバージョンをもう一度見たいと思った。今回のはディレクターズカットで113分であることは事前にわかっていた。

場所がすぐにわからなくて少し遅れ、入ったときは柝の音が聞こえて、宮城野(毬谷友子)の述懐が始まるところだった。赤坂に行ったときは、蓼科で見なかった最後の10分を見るつもりで、今回は、スタンダード版ではカットされていたところを再確認するつもりだった。ところが、最後の、宮城野が死んだ後の、矢太郎と写楽の場面は、私にとって初めて見るものだった。スタンダード版ではあの場面はなかったので、自分が蓼科で見なかった10分間にはあまり大きな展開はなかったのだと思い込んでいた。どんでん返しというほどではないが、この映画を構成する大きな骨格の一つが、スタンダード版からは抜けていると言っても良い。

スタンダード版を見たとき、ディレクターズカット版にはあった写楽と版元が話をする場面がない、と思った。写楽は矢太郎が描いた宮城野の絵を版元に渡し、それを元に役者はどう言おうと自分の絵は良い、みたいなことを言っているが、矢太郎が部屋の外にいることに気づくと「黒を黒と描けるだけでは~」と矢太郎の腕を貶す。そして、今回初めて見た最後の場面では「黒を白にするなんざ、お前にしては上出来」と言っている。この呼応する二つの場面をスタンダード版ではカットして写楽と矢太郎の話は影の薄いものにし、女郎の宮城野が主役であることを強調したわけだ。原作は読んだことがないのだが、写楽と矢太郎の部分は原作から離れて監督のオリジナルが入っていたのだろうか。

他にも、スタンダード版を見たときにカットされていた部分をいくつか確認できた。座敷を出ていく矢太郎に写楽が言葉をかけるシーンのうち最初のものは、写楽の口は動いているがサイレントである。スタンダード版はこれがなかった。 宮城野が座敷で踊っているシーンもあった。人形振りのような気がしていたがそうではなく、膝をついて踊る。演奏は女義太夫。

赤坂では気付かなかったが、矢太郎が提灯を持った黒衣といっしょに芝神明に行き、木立に女がいるのに気付き、黒衣が提灯の灯を吹き消すのもスタンダード版にはなかったような気がする。その後の、主な出演者全員のだんまりシーンはあったが。

呉服屋に行く宮城野の紙人形を黒衣の手で動かすシーンもカットされていたと思うし、これ以外の紙の模型のシーンも、かなりの部分がカットされたのではないだろうか。

その結果の全体的な印象としては、ディレクターズカット版の方が芸術性も完成度も高いものに感じる。まあ、当然か。

オタク的な細部の違いへの興味は別として、3回目でようやく話の流れや登場人物の気持ちが理解できるようになった。宮城野について言えば、自分の命を救ってくれた樵の自己犠牲的行為が幼い宮城野の心にやきつき、一種のトラウマとなって、自分も誰かのために犠牲になる人生を選ばせたのだろう。

矢太郎について、最初に見たときは、似せ絵はうまいが自分のオリジナルはぱっとしなくてそれに悩んでいるのだと思っていたが、2回目も今回もそれは感じなかった。矢太郎の興味はそういう芸術的なところにはあまりなく、世俗的成功の方に関心がある人のような気がする。押入れに隠れていた矢太郎が出て来て自分の気持ちを語るときの愛之助の演技はなかなか良い。

最近、歌舞伎で使われている音楽についての説明を聞く機会があったせいで、使われている音楽にも気がついた。宮城野の回想シーンで雪が降っているところで「雪おろし」。それも、関西バージョンのような気がした。最後に近い方は関東バージョンではないかと思ったが、そこまで使い分けているはずはないか。芝神明で加代がよろめいて矢太郎にぶつかるシーンでは柝の音を使っていた。