獅子虎傳阿吽堂 vol 5 とスペシャルトークセッション2010/02/02 00:02

2010年1月28日 世田谷パブリックシアター 午後3時開演、K列下手、トークセッション 5時開演 2階自由席、午後7時開演 L列上手

客席に入ったら、きょうは舞台が正方形。ここは時によって舞台の形が変わるのだが、正方形は初めて見た。左右にできた空間に、脇正面のような席ができていた。

正方形の上にドーンと置かれた和太鼓。この太鼓はきょうは後ろに引っ込むことはあっても姿を消すことなく、ずっと見えていた。

時間になって、三兄弟登場。広忠は今年初めて見る。去年の思い出に残ることは広忠は「朝長の懺法と姨捨という大曲を打ったこと」、傳左衛門は「さよなら歌舞伎公演を長々と14か月もやってる中で大曲が多かったこと」、傳次郎は「フラッシュにモザイクデビューしたこと(真面目に言うと、珠響をサントリーホールでやったこと)」。海老蔵がフラッシュに載ったとき、いっしょに写真に入っていて、顔にモザイクがかかって掲載されていたそうだ。今月は、傳左衛門は演舞場と歌舞伎座の掛け持ち、傳次郎は浅草と演舞場の掛け持ちで大忙しだったと言う。

林英哲、観世喜正、愛之助、と出演順にゲストが現れて兄弟とお話する。愛之助と広忠の会話が聞きたがったが、広忠は能チームなので愛之助の相手は歌舞伎チームの弟たちにまかせたらしく、観世喜正と並んで後ろに立っているだけだった。

愛之助は、素踊りは恥ずかしいので、顔だけでも塗って出たいと言った。3月の日生劇場の話になり、「ボーイズラブですね」と言った。「男同士の恋愛です。昔は衆道というきちんとしたものがあったようで・・・」

レクチャー

舞台に残っていた観世喜正による「高砂」の歌唱指導。
舞台の後ろのスクリーンに「高砂や~」の歌詞が出て、観世喜正が高砂の松と住吉の松が相生の松で・・・・と説明。半世紀以上生きて来て、この「高砂」が地名だということを初めて知った。「高砂や~」は、何か「やれめでたい」みたいな意味だとしか思っていなかった。観世喜正は話がうまくて面白い。この人の能で寝たことは何回もあるが、講演会だったら絶対眠らない自信がある。

お名前を失念したが若手の能楽師が模範歌唱のために出てきて、一度通して謡ってくれた。 その後、観世喜正が少しずつポイントの説明をし、観客が模範歌唱といっしょに謡ったり、観客だけで謡ったりしながら、「はや住の江に着きにけり」まで謡った。傳次郎は「宇宙人と交信してるみたい」と笑うが、私の方から見ると、大太鼓の周りに4人が正座していて、1人が立っている様子を、知らない人が見たら一体何をしてるところに見えるんだろうと思った。

「高砂や
この浦舟に帆をあげて
この浦舟に帆をあげて
月もろともにいでしおの
浪の淡路の嶋かげや
遠く鳴尾の沖すぎて
早や住の江につきにけり
早や住の江につきにけり」

高砂や~嶋かげや、までは、「あげて」を「あげーーてーー」のように伸ばす他は、平板に謡って良い。次は「とオくなるおのオ沖すぎて」のオのところが上がる。その次の二行が観世喜正のいう通りとんでもなく難しく、私の予想と記憶の限界を超えていた。「はアやすみのオえに」と山になるように上がり、最後の「けり」の「り」が下がる。下がるときは力を入れてください、という指導だった。そして、最後の行は、同じ文句だけれども上がり下がりが違う。
普通の歌だと出ない音があったりするか、謡は音程はないようで、どうにかついて行けた。



「宴」 

大太鼓 林英哲、笛 竹井誠

私は太鼓は好きだが、獅子虎傳や珠響で聴く太鼓が大音響で不安感を持つことがあった。きょうは通路際の席だし、逃げたくなったらいつでも逃げられるから大丈夫とは思ったが、胃が痛むような恐怖感が少しあった。

この後、休憩。



能 「高砂」

 シテ 観世喜正、笛 栗林祐輔、小鼓 田邉恭資、大鼓 亀井広忠、太鼓 林雄一郎

はじめて見たが、とても良かった。広忠の掛け声は勢いが良く、笛も華やかで、観世喜正の謡も舞も素晴らしく、本当に目出度い席にぴったりの能だ。事前に全く期待していなかった演目だが、レクチャーの時の歌唱指導もあり、きょう一番心に残ったのは高砂だ。



舞踊 「老松」 

立方 片岡愛之助、小鼓 田中傳左衛門、太鼓 田中傳次郎、笛 福原寛、長唄 杵屋利光、三味線 今藤長龍郎

高砂があんまり良かったので、最後が盛り下がらないかと心配だったが、悪くはなかった。


「スペシャルトークセッション」

終演後、次の回との間にトークセッションがあった。本当はみずほプレミアムクラブの会員様用だが三響会倶楽部の会員も特別に2階の自由席で見ることができた。

正方形の舞台の上に椅子が4脚。三兄弟プラス1人。最初は林英哲。林は、二十歳のとき、先代の傳左衛門に歌舞伎の大太鼓を教わったのだそうだ。先代は当代とキャラが似ているのだそうだ。

大太鼓を正面から打つスタイルを初めて作ったのが林、と聞いて意外だった。とても当たり前のことのように思っていた。

次は、三兄弟のお母さんの田中佐太郎さん。おととい急遽頼んだ、という。「公開説教」になるかもしれないと言いながら、兄弟から母への質問という形式で行われた。「お稽古は好きでしたか」「嫌いでした」のような感じ。

稽古は八歳から始めたそうだ。古典芸能の稽古としては遅いのだが、鼓や太鼓は子供用がないので、楽器を操れる年齢ということで八歳になった。この道に進むことになると思ったのは中学の頃。小学校の高学年から、歌舞伎役者のお子さんの稽古のお相手をしていた。高校一年で佐太郎襲名。歌右衛門の娘道成寺から陰囃子デビュー。男社会の中に女が入ると目立つので、着物も稽古着のように地味なもの。挨拶のとき笑顔は不要と父に言われた。
三兄弟が三歳、二歳、一歳で稽古を始めた話もあった。


獅子虎傳阿吽堂 夜の部

午後7時開演の夜の部は、昼の部とトークセッションを踏まえて、段どりの悪いところを直したり、間違っていたことの訂正などをしていた。

林英哲は、世田谷パブリックシアターに出演するのは初めてと言ったが、実は出たことがあるそうで、それを聞いて傳次郎と傳左衛門が「僕、それ見ました」と言った。太鼓を正面から打つスタイルを始めた人ときいて驚いていたが、伝統的なスタイルは太鼓の脇に立って打つものだった、という説明をした。それは右利きに有利な打ちかたで、正面から打つと、右利きの場合、左が弱くなるという。

昼は出演順の紹介で観世喜正が先に出て来たが、その後、歌唱指導のために残っていたので、夜は愛之助が先に紹介された。昼には掛らなかった「松嶋屋」の掛け声がかかった。浅草ごくろうさまでした、の後、傳次郎は草摺の後、演舞場へ回ったそうで、役者より大変でしたね。という話を愛之助がした。綱豊については、台詞が多くてぶったまげた、シェイクスピアなんて目じゃない、白石と2人のときも4ページぶっ続けの台詞がある、と言っていた。

そして、最後に観世喜正が紹介されて、歌唱指導。模範歌唱のお兄さんが、最後の一行だけを謡ってくれと言われたときにちょっと吹き出して謡えなくなり、私達も笑ってしまった。後ろに正座していた三兄弟が笑って、広忠が「最後の二行を謡ってくれれば良いから」とフォローした。

夜の部は昼より客の平均年齢が下がったのでどうかなと思ったが、若いとまた別の強みがあるようで、それなりに歌えた。

トークセッションも含めて林英哲の話をきいて親しみを感じたせいか、夜の部では、通路際の席ではなく逃げ出すのは難しかったにもかかわらず、昼の部で感じたようなかすかな恐怖もなく、気持ちよく聴くことができた。


「老松」は上手から見ると、最後に扇を開いて決まるところが下手から見るより綺麗に見えるような気がした。

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