『宮城野<ディレクターズカット版>』東京プレミア上映 ― 2011/03/04 18:59
「ボストン美術館浮世絵名品展」開催記念の上映である。座席がゆったりしていて大好きな写真美術館ホールで「宮城野」を見られるのが嬉しい。
1時半に開演して2時まで、ホール内には「宮城野」のテーマ曲がずっと流れていた。10分前くらいに美人の小口さんが壇に上がって挨拶し、すぐ引っ込んだ。また、あの2人の絶妙なやりとりが聞けるのだと思うと期待が高まる。
午後2時、下手から小口さん、上手から監督が登壇してトークが始まった。トークを上映前に行うのは初めてだそうだ。
山崎達璽監督は、映画の企画を立てた七年前から、いつか、浮世絵の「宮城野」の展示があるときに「宮城野」を上映できたら良いな、と考えていた。映画に本物の宮城野を飾りたかったが、何千万もかかると言われてあきらめた。
ボストン美術館の宮城野は、世界に10点残っている「宮城野」のプリントの中で一番保存状態が良いものだそうだ。スクリーンに映し出された絵を見ると、まず、紫が目に飛び込む 。監督のブログでも読んだが、紫は最も退色しやすい色だそうだが、それがよく残っている。
トークの後映画に出てくる宮城野と比べてみたが、最初に出てくるのとは色合いが違う。最後に、畳の上にある絵の色と近かった。
写楽については諸説あるが、この映画は阿波の能役者・斎藤十郎兵衛説によっている。能役者は士分なので、鬘や衣装、インテリアなどが武ばっている。
キャスティングは、基本的にみんな好きな人。当時、役者絵を描いていた人は歌舞伎を熟知していたに違いないので、矢太郎の役は絶対歌舞伎役者を使うと決めていたし、愛之助には注目していたので、愛之助には10回くらいラブレターを書いた。
愛之助は歌舞伎公演中だったので、撮影は夜から朝にかけて行った。
オールセットで、すべてスタジオ内で撮ったので、天候を気にする必要はなかった。
出演者のエピソードについて。今回は樹木 希林の話が中心。自分で車を運転して来る。マネージャーはいないのかと聞いたら、「死んじゃった」。マネージャーが亡くなった後、1人でやっている。いろいろ差し入れてくれた。食事がカレーのときはキムチ。おいしかった。樹木 希林が撮影に参加したのは4日間くらい。タバコが嫌いなので、樹木さんが来るときは禁煙にしようと話し合っていた。しかし、映画の中では煙管をプカプカふかしてくれた。さすがにプロ。
この映画にはスタンダード版とディレクターズカット版がある。スタンダード版は矢代の原作に忠実。ディレクターズカット版はそこに写楽ミステリーを注入したもの。エンディングが違う。
監督は最後に、言っておきたいことを二つ言った。
一つ目。矢太郎は肉筆の美人画を描きたかったのである。しかしそれでは食っていけないので、版画の役者絵を描いている。そのために鬱屈している。(「今、ちょっと弱気になりましたね」と小口さん)
そうか。私は全然気づかなかった。肉筆の美人画と版画という絵の種類の違いがそもそも念頭になかった。
二つ目。時代劇はかくあるべし、という見方で見ない方が良い。黒沢や溝口が作ったような時代劇は、役者にもスタッフにも、もう作るのは無理。
トークの後、2時半から上映開始。
周りの部屋から聞こえてくる音など、スクリーン上では見えない場所からの音も、よく聞こえた。試写室の音響が特に良いからよく聞こえると思ったのは思い込みだったようだ。
この映画の中で、愛之助がぶりっ子でもなく力んでもいなくて、一番自然に見えて良い感じなのは、宮城野に初めて会ったときに、蕎麦を食べさせながらしゃべっているところかなぁ。においを嗅いでみて、「気にならねえな」と言ったり、「宮城野ってのはどうだ」と言ったりするあたり。あれなら、宮城野が惚れるのも無理はないと思える。
映画「宮城野〈ディレクターズカット版〉」プレス試写 ― 2010/12/23 17:07
知り合いの好意でもぐりこませてもらったので、どの人がプレスの人だかわからなかったが、横の方で写真をとっている人がいた。
「宮城野」を見るのはこれで4回目。
最後の10分を見なかった蓼科の映画祭、短縮版があると知った赤坂レッドシアター、再びディレクターズカットを見るために行って最後のシーンに衝撃を受けた名古屋シネマテーク。名古屋では道に迷って何分か遅刻したので、今回初めて、ディレクターズカット版を最初から最後までちゃんと見たことになる。 感想はその時々で異なるので、このブログに「宮城野」というカテゴリを作ってまとめた。今回の上映は画像も音響も最高、と事前に聞いていたが、確かに、遊郭の中のよその部屋の声や外のざわめきを画面上の人の声とは別に聞きわけることができた。
今回見て新たに確認できたことの一つは、薪車の口上。宮城野が処刑されて柝が入った後、場面が変わって、薪車の口上が入る。今までは、口上というので、薪車が裃を着て現れるのだと思い込んでいたので、わからなかった。声だけだったのだ。
だんまりのシーンのとき、役者達が宮城野の絵をやりとりしているのも、今回初めて気付いた。
映画の冒頭に写楽の描いた宮城野の絵が出る。金曜日は何も気付かなかったが、月曜に見たときは、最初は絵に色がなくて、その後、一色ずつ加わっていくのに気付いた。 土曜日にサントリー美術館の「その名は蔦谷重三郎」展で、「金貸石部金吉」の絵に色を一つずつ刷り足していったのを順番に並べた展示を見たからである。映画で後に出てくる絵草紙屋の店先も、サントリー美術館の展示の一つとして作ってあった店に似ていた。矢太郎が絵を描いている後ろに、写楽の絵が木製のクリップで止めて吊るしてあるが、展示の店の中にも同じように浮世絵が飾ってあった。
私がこの映画を最初に蓼科まで見に行ったのは、片岡愛之助が出るからである。ファンとしては、愛之助が存分に見られて非常に満足だった。山崎監督は、今回の試写後のトークの中で、当時の絵師は歌舞伎について詳しかったに違いないので、矢太郎の役は絶対歌舞伎役者に頼もうと決めていた、と言った。愛之助に注目したのは「新撰組」に出たときで、ときどき涼しい目をするのが良いそうだ。 「涼しい目」というのは、宮城野の話を聞いて「それもまた・・・・か」と言ったときの冷たい目のことだろうか。
愛之助は歌舞伎役者なので、着物の着方はもちろん、写楽に酒を注ぐときの動作など、時代劇の立ち居振る舞いが身に付いている。ただ、そういう点を差し引いて考えると、矢太郎という役を十分に表現できているのかどうか、私にはわからない。
他の共演者は、みんな素晴らしい。毬谷友子、樹木希林、國村隼は、初めて見たときからずっと、役柄にぴったりでうまいと思っているが、おかよ役の佐津川愛美は、前回まではただ若い子の瑞々しさを感じるだけだった。今回見て、「臭くて、みだらなお部屋」という台詞に代表されるような、若い女の子の固さと残酷さがよく出ていると思った。
上映時間113分のうち、ここは見たくないとか、この辺はだれるから飛ばしたいとかいうところはないが、何度か見た結果、宮城野役の毬谷友子が女義太夫の演奏で座敷で上半身だけの踊りを見せるのは、なくても良いのではないかという気持ちが固まった。毬谷の見せ場なのにもかかわらずスタンダード版でカットしてるということは、毬谷もあれは気に入ってないのではないか? 女義太夫は良い。毬谷の部分だけ、浮いている。あと、矢太郎が、吊るしてある写楽の絵に向かって歌舞伎の見得のような格好をするのも、好きではない。この映画に使われている歌舞伎的要素、例えば黒衣や音楽は良い。特に、黒衣が襖の向こうの陰から三味線を渡すところは大好きだ。背景の一部が描き割りだったり、紙人形が動いたりするのも、この映画の魅力になっている。しかし、上記の2か所は、登場人物が役そのままで急に別の世界の動きをするので、違和感を覚える。だんまりのシーンは、全員別キャラ化してるから良いのだが。、
両日とも、上映後に、15分くらいのトークがあった。先に出てきた小口えりこさんという美女と、山崎監督とのかけあいが、実に楽しかった。〈ネットで検索したら、小口さんは元ニッポン放送のアナウンサーだそうだ。〉
小口さん「海老蔵さんのことで愛之助さんが話題になっている今、この時に、この上映会があって、やったと思ったんじゃないですか」
監督「やっぱり、そこから入りますか・・・。せこい男ですから、確かに、やったなとは思いますよ」
みたいなノリ。二人は大学時代の同級生だそうだ。
3年前の松竹座で愛之助が海老蔵の代役をやって全幕出演することになったとき、監督は「宮城野」撮影の打ち合わせをするために大阪に行ったのに、愛之助と面会できず、松竹座で観劇しただけで帰ることになった。名刺の裏に「痩せてください」と「左利きの練習をしてください」と書いて番頭さんに渡して来た。 その二つをしっかりやってくれた、と監督は言っていたが、映画の中の愛之助は、そんなに痩せてるようには見えなかった。
映画の中で、毬谷友子の宮城野と、愛之助の矢太郎がキスをするシーンがあるが、これは原作にはない。撮っている現場で毬谷さんがひらめいて、「やっぱりここはキスくらいしないと」と提案し、監督も確かにそうだと思って、そばで聞いていた愛之助はオロオロしていて、この緊張のまま撮ってしまえと、5分後に撮った、という。
出席者から、最初に撮ったシーンはどこかという質問があったが、その答えは忘れてしまった。最後に撮ったのは、矢太郎が仕事場で、終わった絵の名前の上に線を引いていくシーンだそうだ。「左利きにもずいぶん慣れたからやりましょうか」ということで。
この映画を撮影していた時は、愛之助は国立劇場に出ていて、撮影が終わるのが朝の5時ということもあったが、疲れたとか眠いとかは一言も言わなかった。それについて監督はいつも「マツシマヤッ」と思っていた。終わる時間が遅くなった時は寝ないで、そのまま国立劇場に出ていた。食べると眠くなると言って食事もとらなかったが、スタッフが鰻を差し入れたときは、思いっきり食べていた。
監督は何回か愛之助の楽屋に行ったことがある。歌舞伎座の楽屋というのは歴史があって独特の雰囲気があり、パワースポットのようだった。楽屋で正座して待っていると、愛之助は「よ、先生」と言った後、必ず「足をくずしてください」と言ってくれるので、とても助かる。楽屋では、愛之助はバスローブで出てきたりするので、男二人だけだと、ちょっと変な気持になる。
月曜日には、「そ」という文字が袋の表面に書いてある、楽屋見舞いに行くともらえるお土産を見せてくれた。中身はあぶらとり紙だそうだ。今年は桜茶をもらった、と言っていた。
名古屋シネマテーク 「宮城野」 ― 2010/06/06 17:12
場所がすぐにわからなくて少し遅れ、入ったときは柝の音が聞こえて、宮城野(毬谷友子)の述懐が始まるところだった。赤坂に行ったときは、蓼科で見なかった最後の10分を見るつもりで、今回は、スタンダード版ではカットされていたところを再確認するつもりだった。ところが、最後の、宮城野が死んだ後の、矢太郎と写楽の場面は、私にとって初めて見るものだった。スタンダード版ではあの場面はなかったので、自分が蓼科で見なかった10分間にはあまり大きな展開はなかったのだと思い込んでいた。どんでん返しというほどではないが、この映画を構成する大きな骨格の一つが、スタンダード版からは抜けていると言っても良い。
スタンダード版を見たとき、ディレクターズカット版にはあった写楽と版元が話をする場面がない、と思った。写楽は矢太郎が描いた宮城野の絵を版元に渡し、それを元に役者はどう言おうと自分の絵は良い、みたいなことを言っているが、矢太郎が部屋の外にいることに気づくと「黒を黒と描けるだけでは~」と矢太郎の腕を貶す。そして、今回初めて見た最後の場面では「黒を白にするなんざ、お前にしては上出来」と言っている。この呼応する二つの場面をスタンダード版ではカットして写楽と矢太郎の話は影の薄いものにし、女郎の宮城野が主役であることを強調したわけだ。原作は読んだことがないのだが、写楽と矢太郎の部分は原作から離れて監督のオリジナルが入っていたのだろうか。
他にも、スタンダード版を見たときにカットされていた部分をいくつか確認できた。座敷を出ていく矢太郎に写楽が言葉をかけるシーンのうち最初のものは、写楽の口は動いているがサイレントである。スタンダード版はこれがなかった。 宮城野が座敷で踊っているシーンもあった。人形振りのような気がしていたがそうではなく、膝をついて踊る。演奏は女義太夫。
赤坂では気付かなかったが、矢太郎が提灯を持った黒衣といっしょに芝神明に行き、木立に女がいるのに気付き、黒衣が提灯の灯を吹き消すのもスタンダード版にはなかったような気がする。その後の、主な出演者全員のだんまりシーンはあったが。
呉服屋に行く宮城野の紙人形を黒衣の手で動かすシーンもカットされていたと思うし、これ以外の紙の模型のシーンも、かなりの部分がカットされたのではないだろうか。
その結果の全体的な印象としては、ディレクターズカット版の方が芸術性も完成度も高いものに感じる。まあ、当然か。
オタク的な細部の違いへの興味は別として、3回目でようやく話の流れや登場人物の気持ちが理解できるようになった。宮城野について言えば、自分の命を救ってくれた樵の自己犠牲的行為が幼い宮城野の心にやきつき、一種のトラウマとなって、自分も誰かのために犠牲になる人生を選ばせたのだろう。
矢太郎について、最初に見たときは、似せ絵はうまいが自分のオリジナルはぱっとしなくてそれに悩んでいるのだと思っていたが、2回目も今回もそれは感じなかった。矢太郎の興味はそういう芸術的なところにはあまりなく、世俗的成功の方に関心がある人のような気がする。押入れに隠れていた矢太郎が出て来て自分の気持ちを語るときの愛之助の演技はなかなか良い。
最近、歌舞伎で使われている音楽についての説明を聞く機会があったせいで、使われている音楽にも気がついた。宮城野の回想シーンで雪が降っているところで「雪おろし」。それも、関西バージョンのような気がした。最後に近い方は関東バージョンではないかと思ったが、そこまで使い分けているはずはないか。芝神明で加代がよろめいて矢太郎にぶつかるシーンでは柝の音を使っていた。
映画「宮城野」 ― 2009/10/28 03:57
2009年10月27日 赤坂レッドシアター 午後9時開演
赤坂レッドシアターには初めて行った。今まで気づいたことがないので、かなり新しいところだと思う。田町通りにあり、1階の入口から階段を下りて地下に行く。
去年の10月31日に蓼科高原映画祭に行った時は帰りの電車の時間が気になって最後の10分を見ないで出てきた。今夜やっと最後まで見て、ドンデン返しはなかったのを確認し、冒頭の、写楽の絵が紹介されているシーンのナレーションは寺田農だというのが最後のクレジットでわかった。
驚いたのは上映時間。蓼科のときは113分だったのに、今夜は9時の上映開始で、帰りに赤坂見附の駅で時刻を見たら10時26分だった。30分もカットされている。毬谷友子が赤い襦袢を着て座敷で人形振りだったか、何か歌舞伎もどきの動きをするシーンがあったが、カットされていた。あれは退屈だったので無い方が良いと思う。写楽と版元(?)の人が矢太郎(愛之助)について話しているシーンもなかった。紙製の風景と人形のシーンも減ったような気がする。
主な出演者全員のだんまりのシーンや、矢太郎が歩いているときの前後の面灯りを持った黒衣などはあった。監督の趣味が色濃く出た映画から、不必要なものを削ぎ落して、原作のストーリーがよく見える映画にした、という印象だ。
演出が変わったと思うところもあった。座敷を出ていく矢太郎に写楽が言葉をかけるシーンは2回ある。蓼科で見たとき、そのうちの1回は写楽の声が聞こえなかったように記憶している。今回は両方ともはっきり聞こえる。声をかけられた矢太郎の顔も、蓼科で見たような、下から仰った顔がなかった。あれは面白かったのだが。
映画は宮城野役の毬谷友子が中心だが、樹木希林がやっぱりとってもうまいと思った。愛之助は、最後にちょっと悪い男になって「俺はそんなに甘くねえんだ」と言ったりするところが私好みだった。
去年見たときの感想に「偽絵」と書いたが、「似せ絵」が正しいのかもしれない。矢太郎は写楽の絵を偽造して売っているわけではない。写楽の絵をトレースしていて、それを写楽が持って行くシーンがあった。去年は、矢太郎は似絵の腕は良いが自分の描く絵に魅力がなくて鬱屈している人間と勝手に解釈したが、再見して、その解釈に自信がなくなった。写楽はかつて素晴らしい絵を描いていたが今は才能が枯渇し、写楽の線を真似られる自分が描いた絵の方が、写楽の絵として優れたものが描ける、と思っていることはわかった。
雪の日に二八蕎麦を担いだ矢太郎が宮城野と出会うシーンは覚えていなくて今回印象に残った。宮城野は食べ物に飢えているはずなのに、蕎麦を食べている途中で箸を止めて矢太郎に話しかけているのがリアリティに欠けると思った。
上映が終わって観客が拍手をしているとき、スクリーンの後ろから毬谷友子が現れて「遅くまでありがとうございます。二日までここで上映していますのでお友達にも・・・」のような短い挨拶をした。
第11回蓼科高原映画祭 「宮城野」 ― 2008/11/01 01:15
2008年10月31日 午後六時半~ 新星劇場
上映時間113分なので今考えると余裕で最後のスーパーあずさに間に合ったのだが、不安だったので最後の10分を見ないで出てきてしまった。だから最後にどうなったかはわからないが、映画の出来はとても良くて満足した。
鞠谷友子はあまり好きではないが、いい具合に老けたのが年増女郎の宮城野役に合い、悪くはなかった。
愛之助の役は宮城野のなじみ客のやたろう。最初の方に、大したことはないがベッドシーンもある。やたろうは元々は美人画を描いていたが、うだつが上がらず、今は写楽(國村隼)のところで写楽の偽絵を描いている。偽絵の腕は良いが、自分の線で描いた宮城野の絵には全く魅力がない、というよくあるパターン。
愛之助の出番は予想より多かった。端正だが派手さに欠ける愛之助の顔立ちが、鬱屈した役柄に合っている。この映画は去年の11月、国立劇場の「摂州合邦辻」に出ていたときに撮影していたが、あんなに出番が多いのだったら二つの仕事を併行してこなすのはかなり重労働だったはずだ。ファンの目で見ると顔も姿も映像でたっぷり楽しめて嬉しい。私の好きな手の血管もしっかり見える。歩くところ、動くところ、舞台で見覚えのある動きがこの映画の中でも見られる。写楽の孫のかよ(佐津川愛美)と神社の境内にいるときの照れたようなかしこまったような実直ぶった動きも見覚えがある。襷掛けして太い腕が見えると魅力的だ。やたろうは江戸弁。与三郎の前にこの映画で江戸弁をしゃべっていたわけだ。
山崎達璽監督の映画は初めて見たが、よく出来ていると思った。屋外の背景が歌舞伎のように書割だったり、ときおり紙製の模型が出てそこを紙人形が黒衣に動かされて動く。黒衣の使い方がとても印象的だ。座敷で三味線を弾いたり、駕籠の前後を数人の黒衣が行列していたりと、歌舞伎とは違う使い方だ。この映画の画面全体が暗めなので、黒衣が出ても浮いた感じがしない。写楽の部屋を出ようとするやたろうの後ろから掛ける写楽の言葉がこの映画の中で重要な意味を持っているが、それを聞いた後の、下の方から撮った愛之助の顔の表情が面白い。演技で、というより、愛之助はあんな顔で写真に写っているときがあるので、やたろうの胸中の変化を表そうとして監督が使ったのかと思う。
「宮城野」という話自体よりもこの映画の作りに感動した。
最近のコメント